第9章「虚無の縁帳と、未だ記されぬ契り」

 季節は、霧を越え、桜を過ぎ、深い緑の香りを孕む初夏へと移ろっていた。

 縁宮は一時の平穏を取り戻していたが、その空気の奥には、確かに“何かの揺らぎ”があった。

「“縁帳”に不具合?」

 健太は首を傾げながら、友希の差し出した報告書を読み返した。

「正確には、未来の契りがすべて“空欄”になっている。しかも、ここ一ヶ月以内に“誓詞印”が発現した組のうち、健太と向葵――君たちだけが“帳に記載されていない”」

「……帳に記載されていない?」

 向葵も眉を寄せて報告に目を落とした。

「“縁帳”って、結んだ契りを全部記録してるんじゃないの?」

 まどかが静かに説明する。

「そう、原則は。だけど、極めて稀に“帳に記されない契り”がある。主に三つの理由が考えられてるわ」

 一つ。誓詞自体が偽装されたもの。

 二つ。神の干渉によって記録が意図的に封じられている場合。

 そして三つ。

「三つ目は……“まだ契っていない”という扱いになる“未来起点の契り”」

「未来起点……?」

 碧が補足する。

「言い換えれば、これから起こる出来事をきっかけに、“本当の契り”が成立する可能性があるということ」

「そんな……じゃあ今の契りは、まだ“途中”だってこと?」

「正確には、未確定。強く、深く、霊的にも安定しているけれど――何かが“最後の一筆”として欠けている」

 健太と向葵は思わず目を合わせた。

「まだ……足りない?」

「何が?」

 そのとき、友也がそっと手を挙げた。

「契りって、“誓詞”を神前で述べることで成立するじゃないですか。でも……“願い”は、そのとき言葉にしてましたか?」

 二人は黙り込んだ。

 そう――

 彼らの契りは、危機の中で何度も結び直されてきた。けれど、“何を願ったか”は――明言されていなかった。

「願い……」

 向葵が、口元を指でなぞった。

「たとえば、“これからもそばにいる”とか、“未来を一緒に歩く”とか?」

「……“そうなってほしい”とは思ってたけど、口にしてはいなかった」

 健太も、静かに呟く。

「……あのとき、“言った気”になってたのかもな。行動で示したと思ってた。でも、言葉にしてないなら――それはまだ、誓いじゃなかったのか」

「それが、縁帳に記されない理由?」

 友希が頷く。

「契りとは、言葉と意志と霊力の三重構造。どれかが欠けても、縁帳は“記録”しない」

 向葵は息を吐き、空を見上げた。

「……なら、言うよ。ちゃんと、願う」

「俺も」

 ふたりの目が合う。

 けれど、その瞬間――

 天井の結界がきしむ音が響いた。

「っ!?」

「これは――」

 智恵が背後から駆け込んでくる。

「“縁帳本体”が異常を示してる! 封印層が――破られてるかも!」

 その言葉に、室内が一気に緊迫する。

「まさか、“縁帳”そのものが喰われようとしてるのか……?」

 友也の呟きに、まどかが即座に首を振る。

「違う。これは“未来の契りを強制的に歪める存在”……つまり、“帳喰い”」

「“契り喰らい”に続いて、“帳喰い”……?」

 健太が、拳を強く握る。

 向葵も、目を細めた。

「願いを、今こそ言うべきなのかもね。誰かに、奪われる前に」

 だが、ふたりの契りの行方には、まだ一つだけ――

 重大な“真実”が隠されていた。

 それは、未来ではなく、“過去の誓いの一部”が、意図的に縁帳から削除されていたという事実。

“未だ記されぬ契り”の謎が、いま動き出す――。




 縁宮の霊殿――

 契りを記録する“縁帳”は、その中心に静かに鎮座していた。

 霊気を帯びた薄紙の束。それは神代より受け継がれ、代々の契りを記録してきた霊的装置であり、同時に“未来の誓い”の定点観測でもある。

 その最奥に、いま――小さな亀裂が走っていた。

「……このままだと、“未来の契り”全体が不安定になる」

 友希の声が静かに落ちる。

「すでに縁帳上では、いくつかの契りが“喪失”として分類され始めてる。本人たちはまだ関係を保っているのに、記録のほうが“勝手に消えている”」

「……記録の方が、意思を裏切ってるってこと?」

 碧の言葉に、まどかが頷いた。

「普通は、逆なのにね。誓いを破ったら記録が消える。でもこれは、“帳の側が意志を拒絶してる”。つまり、“帳そのものが狂ってる”」

「それを喰らっているのが“帳喰い”……」

 健太が、拳を強く握る。

「その正体、わかってるのか?」

「――おそらく、“記されなかった契り”たちの成れの果て」

 向葵の背筋に、ぞくりとしたものが走った。

「……破られた契りじゃなくて、“記されなかった”?」

「はい。“叶わぬ恋”、“想いを伝えられなかった片想い”、“一方的に終わった片契り”……そういう未成の誓いが、“帳に残れなかった残滓”として集まり、霊的な意思を持って顕現した存在」

 まどかの言葉に、実咲が思わず口元を押さえる。

「それって……“誰にも届かなかった願い”が、化けたってこと?」

「ええ。そして、それが“今、誓おうとする者たち”に嫉妬して、帳そのものを喰らってる」

 向葵が、息を詰めて健太を見た。

「……まるで、“誓おうとしている私たち”そのものが狙われてるみたいじゃん」

「狙われてるんだよ、向葵」

 健太は真っすぐに言った。

「でも、だからこそ“言う”。ちゃんと。いまここで、“言葉にする”。契りの、真ん中にある願いを」

 彼は、向き直った。

 向葵と、真正面から向き合い、掌を差し出す。

「向葵。……俺の願いは、“君とこれからも一緒にいること”じゃない。“君と何があっても、もう一度結び直せること”。“やり直せる契り”を、君と共有していくことが、俺の願いだ」

 向葵の目が揺れた。

 それは感情の波であり、言葉を越えた想いの証。

 だが、彼女は逃げなかった。

「私の願いは……“誰かを信じ続ける勇気が欲しい”ってこと。“裏切られても、失っても、ちゃんともう一度、誰かを信じたい”って思える自分になりたい」

「――誓いますか?」

 友希が問いかける。

「その願いが、たとえ何度でも歪まされ、壊され、否定されたとしても、それを何度でも結び直す覚悟がありますか?」

 健太と向葵は同時に頷いた。

「誓います」

 その言葉と共に、ふたりの掌が触れ合った。

 次の瞬間――

 縁帳の中央、未記載だった欄に光が走る。

 書かれていく。

 ゆっくりと、だが確かに。

 未だ記されなかった契りが、“現在”として記録されたのだ。

 そしてその直後。

 地鳴り。

 縁帳の背後に設けられた霊的結界が、ばきばきと音を立てて歪む。

「くるぞ……“帳喰い”が、姿を現す!」

 友希の叫びと同時に、空間が引き裂かれる。

 そしてその中から現れたのは――

 無数の顔を持つ、透明な“契りの記憶”の集合体。

 表情なき顔たちが、ぐにゃりと歪んだ空間に浮かび、呻くように言葉を紡いだ。

「書かれなかった私たちの……居場所を……返して……」




「書かれなかった私たちの……居場所を……返して」

“帳喰い”の声は、空気に染み込むように低く、けれど切実だった。

 その姿は、透明な契りの残滓たちが、顔だけの霊体となってうごめく集合体。怒りでも呪いでもない――ただ、見つけてほしいという渇望が、そこにあった。

「……私たちの、名前も、願いも、記されなかったまま消えていった。なのに、なぜ君たちは記された? なぜ、私たちは“消えたまま”?」

 健太が、一歩踏み出す。

「それは……君たちの願いが“偽物だった”からじゃない。届かなかっただけだ。声にならなかっただけだ。俺たちも……少し前まで、そうだった」

 向葵も続く。

「言葉にできなかった。願いを誓えなかった。自信もなくて、臆病で……でも、それでも、いまなら言えるって思ったから、今度こそ、記されたんだ」

 帳喰いが、わずかに形を揺らす。

「……言えたなら、残れたのか……?」

 その問いに、返す声があった。

「違う」

 それは、理子の声だった。

 彼女はゆっくりと歩み出る。

「私は……“ちゃんと誓った”。想いも願いも全部言った。それでも、帳には記されなかったのよ」

 健太が振り返る。

「……それって、どういう――」

「“私の相手”が、“最初の帳喰い”だったの」

 その言葉に、空気が変わった。

「彼は、私と契る前に、何度も何度も願ってた。誰かを好きになって、けれど叶わなかった。祈っても、選ばれなかった。その記憶が全部、“帳に記されなかった”。だから……自分で自分を呪って、喰らわれて、“帳喰い”になったの」

 向葵は唇を噛む。

「……そんなの、あんまりだよ」

 理子は肩をすくめて笑った。

「ね、だから私、契りなんて信用できなかった。でもさ。……君たちを見てて、少しだけ思ったの。“叶わない願い”も、“記されなかった誓い”も、誰かが“覚えてる”なら、ほんとは消えてないんじゃないかって」

 その瞬間、帳喰いの姿がふるりと震える。

 無数の顔の一つ――その中のひとつが、理子を見ていた。

「……君が、僕を……?」

「ええ、覚えてる。名前も、誓いも、手の温度も。あなたのすべてを忘れたくないと思った」

 理子は、手を伸ばす。

「だから、戻ってきなさい。“もう一度、願っていい”のよ。――“今から、書けばいい”んだもの」

 その言葉に、帳喰いの身体が、音を立てて崩れていく。

 残されたのは、小さな霊紙のかけら。

 そこに、一文だけ浮かび上がる。

「また、結べますように」

 健太と向葵は、手を握り合ったまま、理子の背中を見つめていた。

「……記されなかった願いは、消えたんじゃない。“誰かの中に、生きてた”んだ」

「だから私たちも、忘れない。“自分たちが記されたことの意味”を」

 霊気が収まり、縁帳がゆっくりと安定を取り戻す。

 智恵が結界の縁を閉じながら、低くつぶやいた。

「……これで、“未来の契り”は安定するわ。でも、きっとこれは“前兆”だったのね」

「前兆……?」

「ええ。“縁そのものを否定する存在”が、少しずつ地上に触れようとしている」

 健太と向葵は、ゆっくりと視線を交わす。

 彼らの契りは、記された。

 だが、次なる敵は――“記されたすべての縁”を断とうとする者。

“縁断ち”

 物語は、最終局面へ向かって歩み始めていた。

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