第7章「水鏡の誓詞と、嘘つきな願い」

 霧の神域・霞領を後にして三日。

 縁宮には、静けさと安堵が戻っていた――かに見えた。

「……“水鏡”が濁った?」

 友希の報告に、健太は目を細めた。

 水鏡とは、神職の中でも特に深い縁を持つ者の記憶や誓いを“象徴的に映す”とされる秘宝。契りを交わした者の心の奥底、まだ言葉にされぬ“願い”を写すとされている。

「濁りの発生源は、向葵の誓詞領域からだと判明した。内容までは見えないが、過去に強く願った“何か”が、今も心の底でくすぶっている」

「それが原因で?」

「健太の“契りの力”が不安定になっている。昨日の儀式、途中で霊力の波長が乱れたろ?」

「……ああ」

 思い出すのは、儀式の最中、健太の手からふと霊力が抜けたあの感覚。理由のない不調――だが、今なら説明がつく。

「契りは“共有の誓い”だ。相手が自分にも言えない願いを抱いている場合、それは“ほころび”になる」

「向葵に直接聞くわけには……?」

「彼女が自分で気づかなければ意味がない。“偽りの契り”になってしまう」

 健太は頷き、ゆっくりと立ち上がった。

「……俺が、“支える”。彼女が自分と向き合えるように」

 その背中を、友希は静かに見送った。

 *

 その頃。

 向葵はひとり、縁宮の裏庭に立っていた。

 池のほとりにある“誓鏡の石”に触れながら、ぼんやりと水面を眺めている。

(なんか……落ち着かない)

 霞領から戻って以降、何かがずっと胸の奥に引っかかっていた。

 名前を思い出したはずなのに。

 健太との関係も戻ったはずなのに。

「……私、“何か”隠してる?」

 ぼそりと漏れた言葉に、水面がわずかに揺れた。

 すると――

 水の奥に、何かが“映った”。

 それは、幼い頃の自分。

 そして、その傍らにいる、誰かの背中。

(あれ……この背中、見覚えあるような)

 そのとき、背中の人物が振り返った。

 顔は見えない。

 けれど、そのとき幼い向葵が言っていた。

 ――「わたし、およめさんにはならない。ぜったい」

(……あれ、なんで?)

 その“拒絶”の言葉が、水面に波紋を広げた。

 記憶の奥にあった、“絶対に言ってはいけなかった言葉”。

 そして、叶ってしまった“嘘つきな願い”。

「向葵!」

 振り返ると、健太が駆けてくる。

「探した……」

「……ごめん。なんか、頭の中がざわついてて」

「……もしかして、“誓詞の濁り”?」

 向葵は驚いた顔をする。

「なんで、それを?」

「友希に聞いた。……君が、自分でも気づいてない“願い”を抱えてるって」

 向葵は目を伏せた。

「……覚えてない。でも、たぶん、すごく強く“そう願った”んだと思う。何かを、拒絶するような、そういう……」

「それが“契りの力”を乱してる。けど、君がそれを“越えよう”とするなら、俺は……」

 健太は、まっすぐに言った。

「全部、支える。君の記憶も、過去も、間違いも、忘れたことも」

「……どうして」

「君を信じてるから」

 その言葉に、向葵は目を見開いた。

 胸の奥で何かが崩れた気がした。

「……私、ほんとは、誰かと一緒にいるのが怖かったのかも。ずっと昔に、何かを“失った”のか、“裏切られた”のか……思い出せないけど、だから“契りなんてしない”って決めてたのかも」

「でも、今は?」

「今は……ちょっとだけ、誰かを頼ってもいいかなって思えてる」

 そのとき、誓鏡の水面が静かに光を放った。

 向葵の“封じられた誓い”が、解かれ始めていた。

 だが、光の中に浮かんだのは――

「……あれ?」

“健太の子供のころ”と見える、少年の影だった。

「これ、まさか……」

 二人の過去は、ただの偶然ではなかった。

 幼き日にすれ違った“ふたりの誓い”。

 それが今、“契りの真実”として浮かび上がろうとしていた。




 水鏡の中、映し出されたのは――幼い少女と少年。

 彼らは村の小さな社の前で、ひとつの花を挟んで向かい合っていた。

「……向葵?」

 健太がぽつりと声を漏らした。

 画面のように揺れる水面の中で、幼い彼女が、真剣な表情で口を開く。

「わたし、けっこんなんか、しないもん。ぜったい、しないから!」

 健太は目を見開いた。

(この場面、知ってる。覚えてる。あの夏の日、家の都合で母の実家に預けられていた俺が――)

“境内で出会った女の子”が、あの時の向葵だった。

 記憶の中の少女は、泣きそうな目で小さな拳を握っていた。

「だって、“けっこん”って、嘘つきの大人がやることでしょ? 信じたのに、みんな消えるし、いなくなるし――」

 そのとき、小さな少年――健太は、何も言えなかった。

 ただそっと、目の前の花を差し出した。

「……じゃあ、これ。君が悲しくないように、これ、あげる」

「花、なんて……!」

「この花は、“もういちど笑ったら、契りが叶う”って。ばあちゃんが言ってた」

「……バカみたい」

 そう言いながらも、幼い向葵は花を受け取っていた。

 それが――“嘘つきな願い”のはじまりだった。

 *

 現在。

 向葵は、水面に手を伸ばしながら小さく呟いた。

「……ほんとに、私だったんだ」

 健太は黙ってうなずく。

「忘れてた。ていうか、あれって、夢だと思ってた……でも、まさか……」

「俺もだ。向葵って名前を聞いたとき、どこかで会ったような感覚はあった。でも確信がなかった」

 ふたりは、しばらく言葉を失ったまま水面を見つめていた。

 花の記憶。

 誓いの記憶。

 そして、別れの記憶。

「……私、やっぱり怖かったんだと思う。誰かと“本気で約束”すること。信じて、裏切られるのが」

「でも、信じたんだろ? 俺に、“あのとき”」

 向葵は目を伏せた。

「……子どものくせに、優しかったから。花、くれたし」

「そんな理由で?」

「そんな理由で、ずっと覚えてた。なのに、自分で封じてた」

 風が、ゆるく吹いた。

 誓鏡の水面が静かに波を立てる。

 まるで、“嘘つきだった自分”を許すように。

 健太が、そっと手を差し出した。

「今度は、もう“怖がらなくていい”。ちゃんと覚えてるから。今度こそ、俺が“君の願い”を守る」

 向葵は、その手を見つめた。

 子どもの頃とは違う。

 けれど、その真っすぐな視線だけは、変わっていなかった。

「……また花、くれる?」

「花だけで足りるなら、いくらでも」

 向葵は、ふっと笑った。

 そして、その手を取った。

 契りは、再び結ばれる。

 過去の“嘘つきな誓い”と、現在の“向き合った想い”が重なったとき――

 健太の胸の中で、何かが脈動した。

 淡い金の光が、ゆっくりと手のひらに集まっていく。

「……これは?」

「契りの霊力が、形を成してる」

 友希がその場に現れ、低く言った。

「“過去の契り”が真実だったとき、現在の誓いと重なって、“力”として現れる。それは“誓詞印(せいしいん)”と呼ばれる、真実の契りの証」

 向葵が、目を見開く。

「それって……」

「ふたりの契りが、“本物”になったってことさ」

 健太と向葵の手のひらに、小さな花の模様が浮かび上がった。

 それはあの日の、“一輪の花”。

「やっと……やっと“約束”が果たされたんだね」

 向葵の頬を、涙がひとすじ落ちた。

 だが、その涙は悲しみではなかった。

 過去の自分に、ようやく“約束を守れた”という、ほっとした涙だった。




 健太と向葵の手のひらに刻まれた“誓詞印”――

 金色の花の模様は、まるで熱を持つように光り続けていた。

 その中心から放たれる霊気は、静かで温かく、けれど確かな力を宿している。

「これが……本当の契りの証」

 向葵は、自分の手のひらをじっと見つめた。

「こんなにも……あったかいんだね」

「ずっと、ここにあったんだ。あの日の約束が」

 健太の声も、どこか震えていた。

 互いに言葉を交わさずとも、そこに流れる空気は穏やかだった。

 けれど――その穏やかさを打ち破るように。

「……ぬるいわね」

 乾いた声が、二人の背後から響いた。

 振り向けば、そこに立っていたのは――理子。

 神職の装束ではなく、任務用の黒装束に身を包み、その目には光がなかった。

「理子……?」

「誓詞印の発現を、祝ってあげるべきかしら。それとも……“警告”しておくべきかしらね」

「警告……?」

 理子はすっと近づいてきた。距離を取ろうとした向葵に、鋭い視線を投げる。

「本気であの“契り”を信じてるの? 形ばかりの形式に、感情を乗せただけの偽契りだと――あれほど言ったのに」

「もう、偽りなんかじゃない」

 健太が、毅然と答える。

「この誓詞印は、俺たちの過去と、今の想いが重なって生まれたものだ」

「それがどうしたの? 契りが“強くなる”ということは、同時に“狙われやすくなる”ということよ」

「狙われる……?」

「ええ。契りを喰らう“存在”が、霞領の霧の中から、すでに顕現をはじめている」

 向葵の肩が、びくりと震えた。

「まさか、霧の神域で終わりじゃなかったの?」

「霧は“入口”に過ぎない。忘却に沈んだ土地には、もう一つの力がある。“契りに執着する亡霊たち”がね」

 理子の目が、どこか哀しげに細められる。

「あなたたちの誓いが真実であるなら――その力ごと、食らわれる」

「……どうしてそんなに詳しいの?」

「私の元の契り相手が、そいつに飲み込まれたからよ」

 健太の表情が止まる。

「それが……理子が“契りを否定する”理由か」

「そうよ。“真実の契り”なんて、所詮は神喰らいのエサにすぎない。誓えば誓うほど、深く結びつくほどに、喰われる」

 向葵は口を開こうとしたが、言葉を失った。

「でも、それでも。俺たちは、進むよ」

 健太の言葉に、理子の目が細くなる。

「……どうして?」

「誰かを信じるって、そういうことだから。裏切られても、失っても、もう一度信じるって、俺は決めたんだ」

「――甘いわね」

 理子はそう吐き捨て、くるりと背を向けた。

「でも、いいわ。そのまま進みなさい。……その先に何があるか、あなたたち自身で確かめるのね」

 そして彼女は、霧の奥へと消えていった。

 その背には、未練も、怒りも、哀しみも――何ひとつ、滲ませることはなかった。

 *

 その夜、縁宮の夜空には雲がひとつもなかった。

 風も止まり、静けさが満ちる中で、向葵はひとり、縁側に腰をかけていた。

 健太が、そっと隣に座る。

「……怖い?」

「……ううん。正直言えば、“喰われる”ってのはめちゃくちゃ怖いよ」

「だよな」

「でも、いちばん怖かったのは、“自分の気持ちが本物かわかんなくなること”だった。今は――それが、ちゃんとある気がする」

 ふたりの手のひらに、同じ模様がある。

 同じ光がある。

「明日から、また試練の連続だって、わかってる。でも、契りってそういうものでしょ?」

「うん。“一緒に選び直し続ける”ものだ」

 そして、ふたりは黙って星を見上げた。

 けれどその星空の、はるか奥。

 目に映らぬ深層では、確かに“それ”が蠢いていた。

 契りを喰らう者――

 願いを歪め、誓いを呪い、結ばれた心を引き裂く存在。

“契り喰らい”と呼ばれる、古の破神が。

 静かに、次なる“宴”の幕を開けようとしていた――。


【第7章:完】

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