第5章「花綻ぶ夜に、仮初めの夫婦喧嘩」
神隠し事件が解決して三日。
縁宮には久しぶりに、花の香りが戻っていた。
空社で咲いていたはずの早咲きの桜が、なぜか縁宮の庭にぽつりぽつりと咲いていたのだ。誰が移植したのかもわからないが、花びらがひらりと風に舞う姿は、まるで“神様のいたずら”のようだった。
「――というわけで、今日は“契り夫婦”観察日です!」
新しく赴任してきた祭政調和課の補佐官、碧が大声で宣言した。
彼女は、ほんわかとした空気をまといながらも、目の奥には意志の光を灯していた。
「うるさ……ってか誰? あんた」
向葵があっさり切り込む。
「自己紹介遅れました! 碧と申します! 他者との調和を保ちつつ、意見をしっかり言うのが私の信条ですっ」
「言うねぇ……」
向葵が苦笑する傍ら、健太は丁寧に頭を下げた。
「碧さん、わざわざ来ていただいてありがとうございます」
「うわ、真面目か」
「……一応、契り主なので」
そのやりとりを、縁側の柱にもたれかかって見ていた男が一人。
優一。
色白で痩身、どこか物憂げな雰囲気の青年だった。
「ふたりとも、あまり声を張らなくても……聞こえてますよ」
その静かな言葉に、向葵の眉がぴくりと動く。
「……なんで私が悪者みたいになってるの」
「誰も言ってませんよ。ただ、声が“通る”だけです」
「……やっぱりちょっと感じ悪いな!」
「よく言われます」
即答だった。
「ちょっと向葵、落ち着いて」
健太が宥めようとするが、向葵は振り返らず言った。
「別に怒ってないし。てかさ、何? “観察日”って。私たち、モルモットじゃないんだけど」
その瞬間、場の空気が少しざらついた。
「……それは、すごくわかります」
声を挟んだのは、智恵。
彼女は淡い色の羽織をまとい、柔らかな表情で碧の隣に立っていた。
「でもね、向葵さん。観察って、悪いことばかりじゃないよ。“どんなふうに動いて、笑って、怒ってるか”。見てる人がいて初めて、自分の関係に気づくことってあるから」
「……え?」
「流されるのが得意な私だけど、そういう“気づき”だけは、大事にしてるつもり」
その言葉に、向葵はふと、言葉を失った。
(……この人、ふわふわしてるのに、刺すとこ刺してくる)
「とにかく今日はですね!」
碧が、ぱんっと手を叩いた。
「“仮初め夫婦の日常”を記録しつつ、他者の視点からアドバイスを行うという、とても有意義な一日なのです! つまり――」
「――本音が出そうで怖いからやめよう?」
向葵が、あっさり口を挟んだ。
*
昼下がり。
碧・優一・智恵による「契り夫婦観察会」は、予定通り始まっていた。
初手は「昼食の準備を夫婦で協力して作る」だったが――
「おい健太、それ焦げてるぞ!」
「いや、向葵がタイミングって言ったから……!」
「私の“今”はあんたの“今”と違うの!」
「そんな理不尽ある!?」
「――はい、いいですねぇ、口喧嘩風景いただきました!」
碧がサンプルノートに何か書き込んでいる。
「なんかすごく“仲いいけどズレてる”夫婦感があります。観察しがいありますよ~!」
「どの口が!」
向葵の怒声と、鍋の音が同時に鳴った。
「健太さん、少し休んだほうがいいです。距離を詰めすぎると、摩擦熱で火傷しますよ」
優一が冷静に告げ、智恵が苦笑した。
「……でもね、ほんとにそういう時期がいちばん“親密”になるんだよ?」
向葵は、言葉を詰まらせた。
(親密? 私たちが?)
昨日まで、“形式だけの契り”だと断言していたはずなのに。
なのに、どうしてこんなに、胸がざわつくのだろう。
健太が、ふと口を開いた。
「向葵。今日は、ありがとう」
「……なにが?」
「こういうの、嫌だって思ってるのに、付き合ってくれて」
「……バカね。言ったでしょ。“やるからにはとことんやる”って」
「うん」
その一言が、なぜか妙に胸に残った。
空には、春の陽が傾き始めていた。
庭の桜が、風にそよぎ、ふたりの間に花びらを散らした。
そしてその夜、“夫婦”として過ごす寝室で――小さな事件が起きる。
それは、“心の距離”に不器用な二人が、初めて真正面からぶつかるきっかけになる。
夜。
縁宮の離れにある“契り夫婦用の寝室”に、ふたりの影が並んでいた。
中央に障子で仕切られた二間。表向きは別々の部屋とされているが、どちらの襖も薄く、物音も感情も、筒抜けだった。
「……静かだね」
布団に入ったまま、向葵がぽつりと呟いた。
健太は隣の部屋で、掛け布団の端をめくりながら答える。
「観察会が終わって、今日は久々に何もない夜だからな」
「うん。あれ、けっこう……疲れた」
「わかる」
ふたりの間に、気まずくもない沈黙が流れる。
(……なのに、なんでだろ)
向葵は枕に頬を押し当てながら思った。
(気になってしょうがない)
碧や智恵の「いい感じの夫婦ですね」という言葉が、妙に引っかかっていた。
“形だけ”だと何度も口にしてきたはずなのに。あの観察会の最中、健太が誰かと並んでいるとき――ほんの一瞬、胸の奥がきゅっと痛んだ。
(……あれ、まさか)
気づきかけたそのとき。
「向葵、起きてるか?」
「っ……起きてるけど、何?」
少し語気が強くなった。
「いや、その、言いにくいんだけど……」
「なに?」
「……布団、裏表逆にしてないか?」
「…………は?」
「さっき脱いだ浴衣が表返しになってたから、もしかしてって……」
「……はァァァァ!? そういうこと!? わざわざそれ言いにきたの!?」
「いや、気になって……」
「もういい!! 二度と言うなバカ!!」
バッと襖が開き、向葵が健太の部屋に顔を出した。
その顔は赤く、しかし怒っているだけではなかった。
「どうでもいいでしょ、そんなの!! 私がどっち向きで寝ようと、裏返しだろうと!!」
「でも、風邪引くかもって思って……」
「なにそれ、私のこと、心配してるの?」
健太は言葉に詰まる。
向葵は、ぽかんと口を開けてから、ふいに顔を逸らした。
「……ねぇ、健太。今日の観察会でさ、ちょっと聞いたんだけど」
「うん?」
「……あんた、碧と二人で話してたでしょ」
「え? ああ、調査報告の話か? 祭政調和の件で少しだけ」
「……“少しだけ”?」
「ほんとに、それだけだよ」
「……ふーん。まぁ、別に何話してたっていいけど」
「なんで急に不機嫌に?」
「不機嫌じゃないし」
「……嘘つけ」
向葵は言い返さなかった。かわりに、襖をばたりと閉めて戻っていく。
健太はため息をつき、再び布団に入った。
(なんなんだ……。俺、何かまずいことしたか?)
しばらくの沈黙ののち――
「……健太」
襖越しに、向葵の声が聞こえた。
「なに?」
「……あんた、もし契約解除できるようになったら、すぐに解除する?」
健太は、少しだけ考えてから、静かに答えた。
「……わからない。でも、“今はしない”って思ってる」
「どうして?」
「君がいてくれることで、俺は少しずつ変われてる気がするから」
向葵は、襖に背をあずけ、目を閉じた。
(私も……少しずつ、変わってきてる)
(でも、それを言ったら、何かが壊れそうで)
「……バカ。もう寝るから」
その言葉が、彼女の精一杯の“近づき方”だった。
夜風が、桜の香を運ぶ。
その花はまだ、完全に咲ききってはいない。
けれど、確かにほころびはじめていた。
朝、縁宮の庭に柔らかな日差しが差し込んでいた。
淡い陽光の中で、桜の花びらがはらはらと舞い落ちる。
向葵は縁側に座り、昨夜のことをぼんやりと思い返していた。
(……言いすぎたかも)
裏返しの布団のことを咎められた瞬間、なぜか無性に腹が立った。心配してくれていたのはわかっていた。わかっていたのに――
(……あのとき、“ありがとう”って言えてたら)
そんな自己嫌悪の渦中、縁側の端から声がした。
「おはよう。……朝、寒くなかったか?」
健太だった。
どこかぎこちない間が空く。
向葵は返事をする前に、そっぽを向いた。
「……寒かったら、自分でどうにかするから」
「……だよな」
「でも、……湯たんぽ置いてってくれたの、あんたでしょ?」
健太は何も言わずに笑った。
向葵は、こそばゆさを誤魔化すように立ち上がった。
「今日は?」
「“忘れの霧”の調査に出る。友希の報告で、北東の霊域に“意識の逸脱”が出始めてるって」
「意識の逸脱?」
「霧に触れた者が、自分の名前や、他人との関係を忘れかけるらしい。しかも、それは“契り”にも影響を及ぼすって」
「……まずいじゃん、それ。うちらみたいな、仮初め契りのカップルには、特に」
「だから行く。俺たちで、またひとつ解決しよう」
その言葉が、妙に頼もしく聞こえて――
向葵は、思わず笑ってしまった。
「うん、行こっか。契り夫婦として」
*
出発の準備を整えたふたりの前に、三人のサブキャラが待機していた。
碧、優一、そして智恵。
「“忘れの霧”調査、我々調整課三名も随行いたします!」
碧が勢いよく宣言する。
「霧の成分、結界の解析、影響範囲の記録……どれも複雑ですが、ここからが“真の共同任務”です」
「……賑やかだな」
向葵が呟く。
「安心して。僕は距離を取るのが得意だから、付きまとったりはしないよ」
優一の淡々とした声に、健太が苦笑した。
「ありがとう。……いや、ちょっとは寄ってくれた方が助かるかも」
「うん、考えておく」
そして、智恵がふわりと歩み寄ってきた。
「“忘れる”って、時には救いだけど、時には悲しみになるよね」
「……そうだな」
健太の言葉に、向葵も頷いた。
「でも、忘れちゃいけないことも、あるんだよね。……たとえば、“自分が誰かを守りたいと思ったこと”とか」
その言葉に、ふたりの視線が自然と交わった。
まだぎこちない。
でも、確かにそこに、“ひとつの感情”が芽吹きかけていた。
*
「じゃあ、出発します!」
碧の号令で、調査隊は縁宮を後にする。
向かうは、霊域・“霞領(かりょう)”。
神も忘れたような、濃霧と記憶のゆらぎが覆う地。
契りの記憶が試される場所――そこに、ふたりは“名前”と“関係”を守るために足を踏み入れる。
契りとは何か。
結ぶとは何か。
そして、心を交わすとは――どういうことなのか。
旅は、まだまだ続く。
【第5章:完】
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