第17話 囁く水音
――チョロ、チョロロ……チョロ……ン……
夜の静けさの中で、どこからともなく水音が聞こえるようになった。
蛇口は締まっている。窓も閉まっている。
だが、ユウトの部屋の四隅には、じっとりとした湿気が染みついていた。
机の下、クローゼットの中、天井の角。
見えないどこかで、確かに水が**“話している”**のだった。
「聞こえる……?」
レイの声が電話越しに震えていた。
「うん。まるで、水が……誰かの言葉を、繰り返してるみたいだ」
ユウトは携帯を握りしめながら、そっと耳をすませた。
──ユウト、ユウト……
──忘れたの?
──君は、あのとき見ていた。
──“見ていたのに”、何もしなかった。
背筋が凍った。
心当たりが、あった。
あれは、小学生の頃だった。
町は長雨で川が増水していた。
通学路の裏手にある用水路。その縁に、一人の少女が立っていた。
白い傘。青いレインコート。
名前は思い出せない。ただ、その子が滑って落ちた瞬間を、ユウトは確かに見ていた。
でも――
怖くて、逃げた。
誰かが助けるだろう。
あの場にいたことを知られたくなかった。
ただ、それだけだった。
「……まさか……」
そのとき、部屋の床がぬかるむ音がした。
「……え?」
ユウトの足元に、透明な水が静かに広がっていた。
床は濡れていない。けれど、水音だけが増していく。
──ずっと、見てたよ。
──あの子は、助けてほしかったんだよ。
──君しか、いなかったのに。
「やめろ……」
──ここは、そういう場所なんだ。
──“罪を流す水”の世界。
ユウトは、鏡の方を見た。
鏡の表面に、波紋が浮かんでいた。
その中心から、声が聞こえる。
「ユウトくん。あの子、まだ水の中にいるよ。迎えに行ってあげて」
それは、イロハの声だった。
けれど――何かが違っていた。
声の裏に、複数の囁きが重なっていた。
まるで、何人もの“死者”が、イロハという媒介を通して語っているかのように。
鏡が、音を立てて揺れた。
そして、部屋の壁紙がはがれ、そこから水の中の景色が覗いた。
青く沈んだ教室。浮遊する机。天井を泳ぐ制服姿の影。
「これは……裏側……」
“裏世界”――ユウトたちが吹奏楽部室の鏡を通って踏み込んだ、あの異形の空間。
だが今や、それは現実の中に浸透してきている。
鏡の水面に、ふいに“少女の顔”が浮かんだ。
瞳が濁っている。
口元は笑っているのに、頬は涙で濡れていた。
「どうして……あのとき、逃げたの?」
ユウトは膝をついた。
水音が止まった。
代わりに、部屋中に沈黙の重圧が広がった。
心音すら聞こえない、完璧な静寂。
ユウトは鏡に手を伸ばす。
そこに映る自分の背後――そこに、少女が立っていた。
「ごめん……助けられなかった……」
少女の口がゆっくりと動いた。
──もう、遅いよ。
次の瞬間、鏡の中から冷たい腕が伸び、ユウトの手首を掴んだ。
「うわっ!」
強烈な引力がユウトを引きずり込もうとする。
だが、その瞬間、背後から誰かが叫んだ。
「ユウトッ!」
振り返ると、そこにはイロハがいた。
目は覚めていた。
以前のような無表情ではない。
生きている、確かな意志の光がそこにはあった。
「もう一度、抗って……!“囁く水”は、あなたの罪を利用して、呑み込もうとしてるの!」
「イロハ……っ!」
ユウトの中で何かが弾けた。
恐怖ではない。
自分を、過去を、ようやく見つめようとする“覚悟”だった。
鏡の中から、少女の影がゆっくりと沈んでいく。
だがその表情は、穏やかだった。
まるで、ようやく気づいてもらえたことに、安堵しているかのように。
水音が、静かに遠ざかっていく。
チョロ……チョロロ……
やがて、音は完全に消えた。
「……ありがとう、イロハ」
ユウトは呟いた。
イロハは、わずかに微笑んだ。
「まだ終わってないよ。これは“呼び水”に過ぎない。
本当に恐ろしいのは、“水の底”にあるもの……」
「……底?」
「この世界に潜んでいる、すべての罪と記憶の墓場。
それが、“裏世界”の本質。私も、そこに繋がってる」
イロハの瞳に、再び静かな影が落ちた。
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