第13話 イロハの異変

イロハは、その朝、自分の名前が思い出せなかった。


「……なんだっけ、私の……名前……」


呟いた言葉に、自分でも驚いた。ユウトに呼ばれなければ、何時間もそのままだったかもしれない。手帳を見ても、自分の筆跡が誰かのもののように思えた。


人格の境界が、崩れていく。


夜になると、その感覚は特に強くなった。布団に入って目を閉じると、すぐに同じ夢に引きずり込まれる。


雨の音。


それは現実では聞いたことのない激しさで、地面を、壁を、窓を叩きつけていた。暗い廊下。雨はなぜか校舎の中にまで降り込んでおり、床を水が走り、小さな波を作っている。


照明は切れていた。ただ、天井の隙間から、どこか異世界のような青白い光がにじんでいた。


足元の水は深く、まるで底なし沼のようにイロハの足を吸い込もうとしてくる。歩くたびにぬるりと音がして、靴の中まで冷たさが染み込んだ。


「危ないから、ここから離れて……」


誰かの声が、耳元で囁く。


振り向いた。しかし、誰もいなかった。


背筋が凍る。だが、足は止まらなかった。


前へ進む。奥の方から、今度は微かに泣き声が聞こえてきた。水に濡れた布が擦れるような音と、すすり泣きが重なっている。


「……助けて……助けて……」


イロハは水たまりに映る自分の姿を見つめた。


そこに映っていたのは、もう一人のイロハだった。


だが、目が黒く塗り潰され、口元が裂けたように大きく開いていた。その影がイロハの手を引こうとした瞬間――


「私……ここから出たいの」


低く、少女の声がした。


見上げると、廊下の向こうに、濡れた制服姿の少女が立っていた。


目が合った。大きな、黒く沈んだ瞳。見つめ返すと、全身が凍りつくようだった。


「あなたは……誰?」


「……ミユキ。昔、ここで事故に遭ったの。屋上から落ちて、水に沈んだ。……でも、誰も、誰一人として、私を見つけてくれなかった……」


ミユキの声には、悲しみと怒りと、恐怖が混じっていた。


イロハは、冷たい水の中で震えるその魂の存在に、直感的に「この子は忘れられてしまった者」だと理解した。


「私、何かできる?」


そう尋ねると、ミユキは首を横に振った。


「あなたには無理よ……この世界は、もう歪んでしまってるから……でも……私を思い出して。忘れられるのが、いちばん、苦しいから……」


その言葉と共に、世界がぐにゃりと歪んだ。床が崩れ、イロハの身体が水底へと引き込まれていく。恐怖で叫ぼうとするが、声は出なかった。


イロハは、そこで目を覚ました。


涙が頬を濡らしていた。枕も、じっとりと湿っていた。


それ以来、イロハは屋上へ足を運ぶようになった。誰もいないその場所に、今も何かが残っている気がしてならなかった。風に押し戻されるような重圧の中、屋上の片隅で、古びた祠を見つけた。


その祠には、かつての事故を弔うための花が朽ちて置かれていた。


「ミユキ……私、あなたを忘れない」


イロハがそう呟いたとき、雲間から雨粒が一滴、頬に落ちた。


その冷たさは、現実のものだった。


翌朝。


イロハはユウトに夢の内容を話した。祠のことも。ユウトは真剣に頷いた。


「事故のこと、調べてみよう。もしかしたら何か記録が残ってる」


二人は図書室で古い新聞の縮刷版を手に取った。埃を払いながら、事件・事故欄をめくっていく。


そして見つけた。


「数年前の女子生徒・転落事故。被害者は“佐伯ミユキ”さん。深夜の学校屋上で不審な転落死」


そこには、事故当夜の天候が「記録的豪雨」だったこと、水漏れや老朽化した排水溝が原因だった可能性があること、学校側が明確な対処をしなかったこと――が記されていた。


「……やっぱり、水だ」


イロハは呟いた。


「この学校には、何か“水”に引き寄せられる力がある。記憶も魂も、それに絡め取られて、沈められていく……」


ユウトは息を呑んだ。


「水そのものが“向こうの世界”と繋がる入り口になってるのか……?」


その時、図書室の奥で、棚がひとりでに揺れた。


ぴたり、と時が止まったように感じた。


本棚の隙間から、誰かの黒い瞳が――こちらを、じっと見ていた。

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