第4話 部活の違和感

六月の夕暮れ、校舎に響くトランペットの音色は、どこか不協和だった。

吹奏楽部の練習室には湿った空気が漂い、窓を開けてもなぜか風が流れ込んでこない。


 


「……なんか、変じゃない?」


 


クラリネット担当の部員・篠原美羽(しのはら みう)が、ぬるく湿ったハンドタオルで楽器を拭きながらつぶやいた。


 


「ケースの中、濡れてたんだよね。私だけじゃないよ、昨日もトロンボーンの音がおかしいって言ってた子がいたし……」


 


先輩たちは疲れた様子で「湿気のせいだろ」と笑って流したが、美羽は不安をぬぐえなかった。


 


翌朝。吹奏楽部の掲示板には「部活欠席」の連絡がずらりと貼り出されていた。


 


「体調不良が増えてるな……風邪か?」

顧問の柴崎が眉をひそめたが、それだけで終わらせるには、異様な雰囲気だった。


 


――湿った廊下、重たい空気、教室の隅にできる“水たまり”のような染み。

誰もが見て見ぬふりをするが、それは確かに広がっていた。


 


放課後、ユウトはイロハと共に吹奏楽部の部室を訪れた。

彼女が見せたかったのは、使われていないチューバの中に溜まっていた“水”だった。


 


「見て……これ、ただの結露だと思う?」


 


冷たく、ぬるぬるとした感触。

指を近づけると、かすかに“鏡面”のように反射する。


 


「……これ、見覚えある」

ユウトが低くつぶやいた。


 


「イロハ、例の“水の記憶”と似てる。光の反射が反対になってる。……これ、鏡面水だ」


 


その言葉を聞いた瞬間、部室の奥から“音”が鳴った。


 


トランペットの音。

けれど、それは明らかにおかしかった。

人が吹くには不自然すぎる、“逆再生”されたような歪んだ音色。


 


ユウトは咄嗟にイロハをかばい、部屋の奥を睨んだ。

誰もいないはずの楽器ケースの隙間から、水が一筋、床に染み出していた。


 


――ぽたん。


 


水滴が床を打つたびに、不協和音が鳴る。


 


「これは……この学校に染み込んだ“音”の記憶だ」

ユウトが言った。


 


「演奏する人がいないのに、音が残っている。

でも、それを聴いた人の“記憶”と混ざって、演奏するたびに“おかしくなる”んだ」


 


「じゃあ、吹奏楽部の人たちは……?」


 


イロハの問いに、答えるように――

廊下の奥で、“誰かの足音”がした。


 


ぽちゃ、ぽちゃ。


 


水の上を裸足で歩くような音。


 


ユウトとイロハが振り返ると、

そこには、制服を着た“見知らぬ少女”が立っていた。


 


彼女はクラリネットを抱き、にこりと笑った。


 


「……また、聴いてくれる?」


 


次の瞬間、練習室のガラスが全て曇り、外の夕焼けが完全に遮断された。

水の音が、空間を満たし始める。


 


――誰かの演奏が、時を越えて続いていた。

忘れ去られた旋律が、またこの場所に帰ってきたのだった。


ユウトたちの前に現れた“見知らぬ少女”は、クラリネットを静かに構えたまま、何も語らなかった。

まるで、吹奏楽部の一員のように自然で、けれど誰も彼女のことを知らない。

生徒名簿にも、部員の記録にも、彼女の存在はなかった。


 


「……君、名前は?」


 


ユウトが問いかける。

少女は答えない。ただ、にこりと笑い、クラリネットをそっと唇に当てる。


 


――ひゅううん……。


 


ひと吹きの音。空気を逆撫でするような冷たい音が、部室中を満たした。


 


「やばい、出るぞ!」


 


ユウトが叫び、イロハが素早く鏡の欠片を取り出す。

ガラスの窓が震え、壁の時計が逆回転を始める。

空間がゆがみ、現実が“記憶”に飲み込まれていく。


 



 


次に目を開けたとき、二人は見知らぬ音楽室にいた。

古ぼけた楽譜棚、割れた譜面台、床には薄く埃が積もっている。


 


「ここ……いつの学校……?」


 


イロハが辺りを見回しながら言う。

窓の外は霧に包まれ、時間の感覚すらあいまいだった。


 


部屋の奥の譜面台に、古びた一冊の楽譜が置かれていた。

ユウトがそれをそっと開く。


 


――《水の鎮魂歌》と記されていた。


 


「これ……名前だけは、聞いたことある。

この学校が昔、事故で亡くなった生徒たちのために演奏した追悼曲……でも、記録はすべて抹消されてたはず」


 


「じゃあ、この曲を演奏してたのが……あの子?」


 


イロハの言葉に、ユウトはゆっくりと頷いた。


 


「たぶん、この曲が“封じ”だったんだ。

でも何かが起きて、演奏は中断されて……それから、彼女は“ここ”に残された」


 


霧の向こうから、クラリネットの音が聞こえ始めた。

今度は優しく、切ない旋律だった。

忘れ去られた祈りのように。


 


イロハは静かに言った。


 


「……彼女は、最後まで演奏したかったんだと思う。

でも、それが叶わなくて、誰にも覚えられなくて……」


 


ユウトが譜面を手に取る。


 


「なら、俺たちが“続き”を演奏しよう。

ちゃんと、終わらせてあげよう」


 


イロハが頷く。


 


霧の向こうに佇む少女の前に、二人は立った。

少女は驚いたように目を見開き、そして微笑んだ。


 


ユウトがピアノの前に座り、イロハが古びたフルートを手に取る。

どちらも満足に演奏できるわけではなかった。

けれど、その音は確かに“想い”を奏でていた。


 


そして、少女のクラリネットが、静かに重なる。


 


三人の音が、ひとつになったその瞬間――

部室の中に満ちていた水が、すっと引いていくのがわかった。


 


濡れていた楽器は乾き、霧は晴れ、時間がゆっくりと現実に戻っていく。


 


少女は、楽器を抱いたまま、そっと頭を下げた。


 


「ありがとう」


 


その声は、たしかに届いた。


 


そして彼女は、淡い水の粒となって、空へと溶けていった。


 



 


数日後、吹奏楽部は再び通常通りの練習を始めていた。

体調不良だった部員たちも戻り、湿気も音の歪みもなくなっていた。


 


ユウトとイロハは、あの日拾った《水の鎮魂歌》の楽譜を校舎裏の桜の木の根元に埋めた。

静かに、そして丁寧に。


 


「これで……本当に、終わったのかな」


 


イロハがつぶやく。


 


「いや。まだ、ほんの始まりだよ」


 


ユウトが、遠く校舎の屋上を見上げながら答えた。


 


学園に潜む“鏡の水”は、まだその全貌を現していない。

けれど一歩ずつ、彼らはそれに立ち向かっていくのだった。

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