第2話 水たまりの声

その日、放課後の音楽室には、湿った匂いが漂っていた。


窓の外ではぽつり、ぽつりと雨が降り始めていた。まるで誰かが空の上で静かに泣いているかのように、淡く、柔らかく、寂しげな音だった。


「……ん?」


風早イロハはピアノの前に座りかけて、床に目を落とした。

ピアノの下――タイルの継ぎ目に、ぽつんと小さな水たまりができている。


(雨漏り……?)


この古い校舎なら、そういうこともあるだろう。

イロハはハンカチを取り出して、しゃがみ込みながらそれを拭こうとした。


……そのときだった。


 


「……ぁ……いで……よ……」


 


空耳かと思った。

けれどもう一度、耳を澄ます。


水たまりから、かすかに“音”がする。


高く、薄く、か細い声。

どこか遠くで、誰かが囁いているような、いや、それとも――歌っている?


「子守唄……?」


イロハは知らず、指先を水面に伸ばしていた。


 


その瞬間、水面が波打ち、小さな雫が跳ねた。

彼女の指先が触れた瞬間、床の水たまりはまるで“生き物”のように動き、彼女の手を掴もうとした。


「っ……!」


イロハは慌てて手を引いた。けれど、指先には冷たい感触が残っていた。

それは単なる“冷たさ”ではなかった。――まるで、誰かの肌のような、生温かい湿り気だった。


 


「……なに、今の……」


 


だが気がつくと、水たまりは跡形もなく消えていた。床は乾いており、最初から何もなかったように見える。


教室の静寂だけが、不自然にそこに広がっている。


 


イロハは立ち上がると、そっとピアノの蓋を開けた。

手を震わせながら、ひとつ鍵盤を叩く。


♪ポーン……


ゆっくりと音が広がったその瞬間――


 


「……おかえり……」


 


誰かが、背後でそう言った。


反射的に振り返る。だがそこには、誰もいない。

扉は閉じられたまま。窓も開いていない。

ピアノの上に載っていた譜面が、ぱさりと一枚、床に落ちただけだった。


 


イロハは唇を噛み、教室を飛び出した。

雨の音が強くなっている。

濡れた廊下を走り抜けながら、何度も振り返る。


背後には、誰もいない。


だけど彼女にははっきりとわかった。


――あれは、声だった。誰かが、呼んでいた。



 


その晩、イロハは夢を見た。


校舎の廊下に水たまりが連なっている。そこに映るのは、見慣れた制服の自分――けれど顔がない。

鏡のような水面が、ぼんやりと輝いていた。


そして、あの子守唄のような声が、夢の中にも響いていた。


「……いろは……いろは……はやく……」


 


目覚めたとき、イロハの手のひらは濡れていた。


でも、部屋には水なんてなかった。


――あるはずがなかった。

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