水鏡の放課後
すぎやま よういち
第1話 放課後の鏡
チャイムが鳴った瞬間、教室に広がったのは、弛緩した空気と椅子を引く音だった。
六月の湿気を含んだ午後。開け放たれた窓から流れ込む風はぬるく、汗ばんだ制服にまとわりつく。
「じゃあ天野、これ職員室まで運んでくれる?」
担任の戸部先生がプリントの束を差し出してきた。
「え、俺っすか?」と不満そうに言いながらも、天野ユウトは立ち上がる。クラスで“雑用係”を頼まれるのはいつものことだ。
職員室への道すがら、ユウトは一瞬だけ、ふと――あの違和感を思い出していた。
つい数日前、美術室の前を通りかかったとき、ふと視線を感じたのだ。
誰もいないはずの部屋。鍵もかかっていたはずだった。
でも、ガラス窓の向こう。鏡の前に立っていたのは、間違いなく、自分だった。
──それ以来、ずっと胸のどこかがざわついている。
* * *
放課後の校舎は静かだ。人の気配があるのに、なぜか「誰もいない気配」がする。
プリントを届け終えたユウトは、何気なく校舎の南側、美術室の前で足を止めた。
もう一度、確かめたいと思ったのだ。あれはただの見間違いだったのかどうか。
ガラス越しに中を覗く。
古びた机、カーテン越しの淡い光、誰もいない室内。そして――あの大きな、壁一面の鏡。
「……あれ?」
鏡に、誰かが立っている。
……いや、それは“自分”だ。立ち尽くしているのは間違いなく、天野ユウト本人。
けれど、鏡の中のユウトは、何かが違う。表情が、髪の跳ね方が、制服のボタンの止め方が――微妙に、違っていた。
そして鏡の“彼”は、こちらに向かって、にぃ……と、笑った。
ユウトの背筋が、ぞっと凍りついた。
彼は無意識に後ずさり、階段の影に身を隠す。息をひそめ、再び鏡を見やる。
だが、そこにはもう何もいなかった。
鏡には、ただ静かに、夕陽が差し込んでいるだけだった。
(……やっぱ、俺……疲れてんのか?)
けれど、胸の鼓動は今も止まらない。
肌にまとわりついた汗が、急に冷たくなった気がした。
* * *
その夜。夢を見た。
鏡の中の自分が、じっとこちらを見つめている。
笑っている。口元は動かないのに、声がする。
「──かわってよ。ぼくがほんものなんだから」
ユウトは息を呑んで目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む月光が、机の上の手鏡に反射していた。
そしてその鏡には、彼の“顔”が映っていなかった。
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