ひと夏の逃避行

葉月エルナ

第1話

 突き飛ばした手のひらの感触。階段を転がり落ちていく一回り大きな身体。頭を打つ鈍い音。


「……ぁ」


 一瞬の硬直の後に自分のしてしまったことを、その事の重大さを悟って私は走り出した。


「は、は、はっ……!」


 向かう先は、この世界で唯一心を許せる彼の元。きっと彼はこの時間、家に一人でいるはずだ。人生で初めて、陸上をやっていてよかったと思いながら三十分の距離を駆け抜ける。


「お願い……出て……!」


 築数十年のボロアパート、二階の角部屋。数回に一回しか鳴らないインターフォンを、必死で連打した。


「一夏……? どうしたの?」

「夏彦……!」


 いぶかしげに顔を出した制服姿の彼に、気づけばすがりついていた。


「夏彦……! 私、わた、し……」


 人を殺しちゃった。


 そう絞り出した声はひどく掠れていて、夏彦が聞き取れたのかもわからない。しかし言ってしまったら止まらなかった。


「どうしよう、どうしよう夏彦……。捕まりたくないよぉ……!」

「落ち着いて、一夏。殺したって、一体誰を……」

「同じ、クラスの……いつも私をいじめてた人……。階段で突き飛ばしちゃって、それで……!」


 脳内に一時間ほど前の記憶が蘇る。震える身体を、夏彦は優しく抱きしめてくれた。


「大丈夫、一夏……。警察に行こう」


 だが、その提案だけは受け入れるわけにはいかない。私の未来を、こんなところで奪われてたまるか。そもそも悪いのは私をいじめていたあの女ではないか。その一心で、私は首を横に振った。


「いやっ! それだけは絶対に嫌!」

「一夏……でも」


 わかっている。彼の言葉が正しいことなど理解できている。普通なら警察に行って事情を説明するべき状況だ。しかし私には到底受け入れることのできない言葉だった。


「ねぇ、夏彦……。一緒に逃げてよ」


 気が付いたら、無意識のうちにそう言っていた。


「一夏……それは……」

「お願い夏彦! 夏彦が一緒に来てくれないなら私一人でも行く!」


 我ながら卑怯な言い方をしたと思う。こう言えば夏彦は私と来てくれるとわかった上で、自分のためにそう言った。言ってしまった。


「……わかった。一緒に逃げよう」

「夏彦……! ありがとう……」


 こうして私たちの逃避行は幕を開ける。たどり着く先は終焉と理解していながら、他の選択肢を選ぶことができなかった私たちの逃避行。その最後、自分たちがどうなるのかなんて、この頃の私たちには見当もついていなかったに違いない。

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