【第十九話】

「何か用かね?」


 加瀬刑事は、やや怪訝そうな顔でこちらを見た。

 重たく降りかかるような大人の威圧感に、思わず身が縮こまる。

 けれど――それでも、言わなければならなかった。


「……思い出したことがあって。もう一度、現場を見せてほしいんです」


 まっすぐに目を向けて告げた。

 それが思いつきではないことは、自分自身がいちばん分かっていた。


「はぁ……分かったよ。俺たちもそろそろ引き上げるとこだったからな。

 遠くから眺めるだけなら、いいだろう」


「ありがとうございます。……ねむたちは、ここで待ってて。

 あの場所をまた見るのは、ちょっと辛いだろうし」


◇ ◇ ◇


 理科室の前に立つと、まだ規制線が張られていた。

 チョークで囲まれた床には、事件の痕跡がいくつも刻まれている。


 視線を上げる。パイプの上――何かが、そこに見えた気がした。


「……あのパイプの上、少し中に入ってもいいですか?」


 返事を待たずに、足が勝手に動いた。


「おい、お前! 勝手に入るな!」


 声が飛ぶ。けれど、もうそこまで来てしまっていた。


 パイプの表面に、細い擦り傷のようなものが走っている。

 ……線だ。おそらく、数ミリほど。明確な用途は分からないが、不自然に思えた。


「おい! 聞いてんのか!」


 振り返ると、加瀬刑事の腕が伸びてきた。

 次の瞬間、俺は教室の外へと引きずり出されていた。


「まだ封鎖中だ! 出ろ!」


 理科室の扉が、背後で閉じる音。

 少し離れた場所で、ねむたちが心配そうにこちらを見ていた。


「……まったく、最近のガキは何考えてんだか」


 呆れたように言い捨てた加瀬に、俺は口を開いた。


「……警察は、今回の件、自殺として処理するつもりなんですか?」


 加瀬は頭を掻いた。

 面倒ごとを持ち込まれた、という顔だった。


「……たとえば、床に散らばっていた水とか。首を吊ったにしては高すぎる位置とか。

 椅子が倒れていなかったこととか……そういう違和感、あると思うんです。

 きっと、そちらも気づいてますよね?」


 一歩、加瀬が近づいてきた。


「じゃあ、説明してくれ。

 薬で意識を失った四十五キロくらいの女子生徒を、深夜にどうやって吊るした?

 鍵は二十一時にはかかっていた。誰も出入りしていない。

 違和感があったところで、痕跡も証拠も何もない」


 声のトーンは低く、重かった。

 ただ怒っているのではない。どこか――投げ出された問いのように聞こえた。


「……キミに、それを説明できるのか? できるなら教えてくれよ」


 口を開こうとして――何も出てこなかった。

 自分が、まだ何も持っていないことに気づく。

 焦りが、胸を叩いた。


「もう、いいかね」


 言い捨てられたその言葉に、俺はただ、黙って頷くしかなかった。


◇ ◇ ◇


「大丈夫? 怒られてたようにも見えたけど」


 ねむの言葉に、ようやく現実に引き戻される。


「……うん、大丈夫。

 加瀬刑事も、たぶん気づいてると思う。

 ただ、それを証明する術がなくて……もどかしさを抱えているように見えた」


(あと、もう一つ。確信に届くピースがあれば……)


 小さく頭を下げて、その場を後にした。


「一階に休憩スペースがあるよ。少し、そこで話さない?」


 優衣が提案した。


 歩き出した先には、休憩室の椅子に座り、コーヒーを手にスマホを眺めている――

 大迫先生の背中が見えた。

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