氷解する孤独と覚醒の王子

アルスの変貌した姿と、その威厳に満ちた声に、白狼姫フェンリルは完全に動揺していた。彼女が放とうとしていた禁断の魔法「コキュートス・エンド」の膨大なエネルギーも、行き場を失ったように霧散していく。


「アルス……様……? 本当に……あなたなのですか……?」

フェンリルの声は震え、その美しい瞳からは大粒の涙がこぼれ落ちた。彼女の隣にいた巨大な氷狼ゲリとフレキも、どこか戸惑ったようにアルスを見つめている。

「そうだ、フェンリル。俺は、ザルガードの息子、アルストロメリア。そして、お前を孤独から救い出すために戻ってきた」

覚醒したアルス――アルストロメリアは、ゆっくりとフェンリルに歩み寄る。その足取りは、以前の彼とは比べ物にならないほど堂々としていた。


「アルストロメリア様……。私は……私は、あなた様が亡くなられたとばかり……。魔王様も、ずっと心を痛めておられました……」

フェンリルの言葉から、彼女の過去、そして魔王ザルガードとの関係が垣間見えた。フェンリルもまた、かつてはアルストロメリアの近しい存在であり、彼が姿を消した後、その悲しみと絶望の中で魔王に仕えるようになったのかもしれない。そして、彼女の冷酷さは、その深い悲しみを隠すための仮面だったのだろう。


「俺は死んではいなかった。何者かの手によって記憶を奪われ、エルドラの辺境に落とされたのだ。だが、今、全てを思い出した。父上のことも、そして、お前のことも」

アルストロメリアは、優しくフェンリルの涙を拭った。その仕草は、彼がまだ「アルス」だった頃の優しさを残していた。

「このエルドラで、俺は多くのことを学んだ。優しさ、友情、そして仲間を信じることの強さを。それは、魔王である父上が忘れてしまったものなのかもしれない」


その時、フェンリルがハッとしたようにアルストロメリアから身を引いた。

「いけません、アルストロメリア様! あなた様が戻られたと知れば、魔王様は……! 今の魔王様は、かつての優しいお方では……。あの『黒き雫』の力に、完全に心を支配されてしまっているのです!」

黒き雫――父なる破壊の瞳から零れ落ちたという、星をも砕く魔力の源。それが、魔王ザルガードを現在の冷酷な支配者へと変えてしまった原因らしい。

「分かっている、フェンリル。だからこそ、俺が父上を止めなければならない。俺のこの手で」

アルストロメリアの瞳には、悲壮な決意が宿っていた。


「フェンリル、あなたはもう戦う必要はないのよ」

ルナが、そっとフェンリルに声をかけた。彼女もまた、孤独の痛みを知る者として、フェンリルの心に寄り添おうとしていた。

「……でも……私は……多くの罪を……」

「過去は変えられない。でも、これからどう生きるかは、自分で決められるはずよ」

私の言葉に、フェンリルは顔を上げた。その瞳には、長らく凍てついていた氷が解け始めたような、微かな光が灯っていた。


白狼姫フェンリルは、戦意を放棄した。ゲリとフレキも、彼女の意思に従い、おとなしくなった。こうして、最後の四天王との戦いは、意外な形で幕を閉じた。

「アルストロメリア様……いえ、アルス様。もしよろしければ、私も魔王様を止めるお手伝いをさせていただけないでしょうか? そして、もし魔王様を救うことができるのなら……」

フェンリルは、アルストロメリア――今は、その両方の記憶と人格を併せ持つ「アルス」として――に、そう申し出た。彼女の瞳には、もはや以前の冷酷さはなく、ただ純粋な願いが込められていた。

「もちろんだ、フェンリル。一緒に来てくれ」

アルスは、力強く頷いた。


魔王ザルガードの居城「デモンズキャッスル」は、エルドラの中央、暗黒の雲が渦巻く、まさに魔境と呼ぶにふさわしい場所にあった。四天王を全て失った魔王は、その魔力をさらに高め、城全体を強力な結界で覆っていた。


「いよいよ、最後の戦いだねぇ。相手は、星を吹っ飛ばす魔法と未来予知持ちの魔王様か。こりゃ、骨が折れそうだぜ」

サヨは、いつものように軽口を叩きながらも、その目は真剣だった。

「ヒメカさん、私たち、勝てますか……?」

ミリアが不安そうに尋ねる。

「ええ、きっと大丈夫よ。私たちには、こんなに頼もしい仲間がいるのだから」

私は、アルス、ルナ、サヨ、そして新たに加わったフェンリルを見回して言った。そして、セバスチャンが操るノアの方舟も、いつでも私たちを支援できる態勢を整えている。


デモンズキャッスルへの道は、強力な魔物たちがうごめく、まさに地獄のような道のりだった。しかし、覚醒したアルスの力は絶大だった。聖剣ソルブレイバーは、彼の意思に応えて黄金と蒼の光を放ち、あらゆる魔物を薙ぎ払っていく。彼の戦闘スタイルは、かつての臆病な「アルス」と、冷静沈着な「アルストロメリア」が融合したような、独特のものへと進化していた。

「アルス、すごい……!」

ミリアは、彼の戦いぶりに目を輝かせている。


そして、私たちをサポートするように、ザハラが時折姿を現し、魔王軍の配置やトラップに関する情報を提供してくれた。

「……なぜ、そこまでしてくれるの?」

私が尋ねると、ザハラはフンと鼻を鳴らした。

「勘違いするな。私はただ、あの『瞳』に関わる全てのものがどうなるのかを見届けたいだけだ。お前たちが勝とうが負けようが、私には関係ない。だが……少しばかり、お前たちの足掻きに興味が出てきたのも事実だ」

彼女の言葉は素っ気ないが、その瞳の奥には、ほんの少しだけ、期待のようなものが感じられた。


ついに、私たちはデモンズキャッスルの最上階、魔王ザルガードの玉座の間に辿り着いた。そこには、黒い甲冑に身を包み、禍々しいオーラを放つ巨大な男が、玉座に深々と腰掛けていた。その顔は影に隠れて見えないが、全身から放たれるプレッシャーは、これまでのどの敵とも比較にならない。そして、その手には、黒く輝く長大な剣が握られている。


「――よく来たな、我が息子アルストロメリア。そして、愚かなるエルドラの残党と、異界の者どもよ」

魔王ザルガードの声は、地獄の底から響いてくるように重く、そして冷たかった。

「父上……!」

アルスが、聖剣を構えて前に進み出る。

「お前が記憶を取り戻したことは、予見していた。だが、まさか本当にこの俺に刃向かってくるとはな。あの『黒き雫』を飲んで以来、俺の心はもはや誰にも止められん。このエルドラも、そしていずれは全ての宇宙も、俺の力によって無に帰るのだ!」

魔王の目が、血のように赤く輝く。3秒先の未来を見るという「予見の魔眼」だ。


「そんなことはさせない! あなたが失ってしまった優しさを、僕が……いや、俺が取り戻してみせる!」

「フン、戯言を。ならば、その力、見せてみよ!」

魔王ザルガードが立ち上がり、黒き剣を構えた。その瞬間、凄まじい魔力の奔流が玉座の間を吹き荒れる。星一つを吹き飛ばすと言われる、その圧倒的な力。


「みんな、行くわよ!」

私の号令と共に、最後の戦いの火蓋が切って落とされた。

サヨとフェンリルが、風と氷の魔法で魔王の動きを牽制する。ルナとミリアが、回復と補助魔法で仲間たちをサポートする。そして、私とアルスが、それぞれの最強の技で魔王に斬りかかる。


魔王の動きは、未来予知によって完璧に予測されているかのように、私たちの攻撃をことごとくかわし、あるいは黒き剣で弾き返す。そして、時折放たれる闇の魔法は、空間そのものを歪ませるほどの威力を持っていた。

「くっ……! 全然攻撃が当たらない……!」

サヨが歯噛みする。


「ヒメカ様、魔王の予見能力を無効化するには、彼の予測を超えた速度と手数、あるいは全く新しいパターンの攻撃が必要です!」

セバスチャンからの的確なアドバイス。

「分かっているわ! アルス、合わせるわよ!」

「はい、ヒメカさん!」

私は、これまでの戦闘で習得した炎、氷、水、雷、闇、光、風の全ての属性の魔法を組み合わせ、予測不可能な連続攻撃を編み出した。それは、まるで属性の嵐のように魔王に襲いかかる。

「なにっ!? この動きは……予見できなかっただと!?」

魔王が初めて動揺を見せた。その隙を突き、アルスが聖剣ソルブレイバーで渾身の一撃を叩き込む。

「うおおおおっ! ライジング・サン・スラッシュ!!」

黄金と蒼の光が魔王の黒き鎧を切り裂き、わずかだがダメージを与えた。


「おのれ……小賢しい真似を……! ならば、これを見るがいい! 我が究極魔法、『アビス・エンド』!」

魔王が、黒き剣を天に掲げた。すると、城の天井が砕け散り、その向こうに、アビス・コアの禍々しい空と、そして……あの巨大な「瞳」の一部が見えた。そして、その瞳から、暗黒のエネルギーが魔王の剣へと注ぎ込まれていく。

「まずいわ! あの魔法が完成したら、この城ごと消し飛ばされる!」

マリーナから託された水の魔力と、ルナのハイドロスピリット、そして私が持つ水龍の涙の力を結集させ、巨大な水のバリアを展開する。


「アルス! 今しかないわ! あなたの全ての力で、魔王の魔法を止めるのよ!」

「……はい! 父上を……ザルガードを止めるのは、俺の役目だ!」

アルスは、聖剣ソルブレイバーを胸に抱き、何かを呟き始めた。それは、彼が失われた記憶の奥底で、父から教わった古代の呪文のようだった。

聖剣が、今までで最も眩い光を放ち、アルスの全身が黄金のオーラに包まれる。それは、まさに勇者と魔王の力を併せ持った、究極の覚醒だった。


「――父上、あなたは間違っている! 真の強さとは、破壊ではなく、愛することだということを……俺が教えます!」

アルスが叫び、聖剣を魔王の黒き剣に向かって突き出した。

二つの強大な力が激突し、世界が白く染まるほどの閃光が迸った。


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