秘密の場所と恋の形(後編)

昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴る。

その音が、まるで夢から現実へと引き戻されるように、二人の間に静かに響いた。

「……もう、戻らなきゃだね」

咲羽が名残惜しそうに立ち上がる。彩音もそれに続いたが、しばらく無言のまま、鞄の取っ手を握ったまま動かなかった。

「彩音さん……?」

「……ねえ、咲羽ちゃん。今日、放課後……少しだけ、時間ある?」

咲羽はきょとんとして、すぐに頷いた。

「ありますよ。どうかしました?」

彩音は少しだけ恥ずかしそうに、けれどどこか決意のこもった表情で言った。

「……また、ピアノ弾くの。良かったら……聴きに来てほしいなって、思って」

その言葉に、咲羽の頬がふわりと赤く染まった。

「……はい。行きます。絶対に行きます」

そう答える声が、少し震えていたのは、きっと期待と嬉しさと――少しの照れが混ざっていたから。

彩音も微笑み返した。その笑顔は、咲羽にとって、音楽よりも何よりも優しい響きだった。

「じゃあ、音楽室で待ってるね」

「……はい」

二人は教室の扉の前で立ち止まり、何か言いかけたように目を合わせた。

けれど、言葉にはせず、ただ微笑みあったまま、それぞれの教室へと歩き出した。

廊下のざわめきの中、咲羽の心には、今もあの指先の温もりと、優しい約束の言葉が残っていた。

『放課後――あの音に、また触れられる』

そして、ただ聴くだけじゃない。

今度は、想いを交わせますように。

そっと心を、近づけるように――。


放課後。授業の終わりを告げるチャイムが鳴ると同時に、咲羽の心はそわそわと揺れた。

『音楽室……約束、したんだ』

教室を出て、急ぎ足で階段を上がる。夕陽が差し込む廊下を抜け、静かな音楽室の前で足を止めた。

――キィ……

ドアを開けると、そこには彩音の後ろ姿があった。グランドピアノの前に静かに座り、譜面に目を落としている。

咲羽の気配に気づいた彩音が、振り返って、ふわりと笑った。

「来てくれて、ありがとう」

「……いいえ。こちらこそ、呼んでくれて嬉しかったです」

咲羽は扉を閉めて、そっと近づく。彩音はベンチの隣を軽く叩いた。

「座って」

「はい」

咲羽は小さく頷き、彼女の隣に腰を下ろした。ピアノの白と黒の鍵盤が、どこか神聖なもののように感じられた。

「……この曲、初めて人前で弾くんだ。練習中で、まだ少し荒削りだけど……」

「彩音さんの声なら、大丈夫です。……きっと、ちゃんと届きます」

その言葉に、彩音はほんの少しだけ頬を赤らめた。そして、そっと鍵盤に指を添える。


――優しい旋律が、音楽室にふわりと広がった。

ゆっくりと流れるような前奏。そこに、彩音の歌声が乗る。

「……ずっと、胸の奥で……名前のない想いが、響いてた……」

透き通るような声が、夕暮れの音楽室を満たしていく。

まるで、咲羽だけに届くように歌ってくれているようだった。

咲羽は指を組んだまま、胸の奥が熱くなるのを感じていた。歌詞の一つひとつが、自分の気持ちと重なっていく。

「……あなたの笑顔が、わたしの未来を照らすの……」

最後のフレーズが終わり、余韻が音楽室に広がった。


静寂。


けれどその沈黙は、言葉よりも雄弁だった。

「……どうだった?」

そっと彩音が尋ねる。

咲羽は、言葉にならない感情を抱えたまま、口元を震わせた。

「……すごく、綺麗でした……」

「よかった……咲羽ちゃんに、聴いてほしくて……この曲、実は……」

彩音が視線を伏せ、そっと呟く。

「咲羽ちゃんのことを考えて、作った曲なんだ」

咲羽の目が、見開かれた。

「……私の、こと……?」

彩音は、ぎこちなく頷いた。

「そう、この前、咲羽ちゃんに“好き”って言われてから、ずっと考えてた。自分の気持ちをどうすればいいか、わからなくて……」

ゆっくりと、彩音は咲羽のほうを見つめる。

「でも、今日……こうして一緒にいられて、ちゃんと向き合えて……少しずつだけど、分かってきた気がするの……咲羽ちゃんは、私にとって特別なんだって」

咲羽の瞳に、また涙がにじんだ。

「……嬉しいです。彩音さんの音が、今日も、私の心を震わせました……」

そして、二人はゆっくりと、距離を縮めた。

そっと、手と手が触れる。

重ねた指先が、確かめ合うように繋がれた。

まだ始まったばかりの、二人の恋。

けれどその音は、確かに今、一つの旋律になって響き始めていた――。


翌日の昼休み。教室のざわめきの中、咲羽は窓の外をぼんやりと眺めていた。

『放課後、あの後……手を繋いだんだよね』

ふと、彩音の顔が胸の奥に浮かぶ。そっと重なった手の温もりが、まだ心の中に残っていた。

「島野さーん、今日の昼ご飯、一緒に――」

「ごめんなさい、ちょっと用事があって……!」

クラスメイトの声を遮るように立ち上がると、咲羽は迷いなく廊下へと足を向けた。

向かうのは、昨日彩音が「来てほしい」と言った、校舎の奥の空き教室。

昼休みのざわめきが遠のいていく。静まり返った廊下の先――その一室には、やはり彼女がいた。

机に肘をついてノートを見つめていた彩音が、咲羽に気づいて微笑む。

「来てくれたんだ」

「……はい。行くって、言いましたから」

教室の中は静かで、心音が響くような静けさがあった。

彩音は咲羽のほうに椅子を引いて、ぽん、と軽く手を叩いた。

「こっち、座って?」

咲羽は少し照れながら隣に腰を下ろす。肩と肩が、かすかに触れる距離。

ふたりはしばらく言葉もなく、そっと互いの横顔を盗み見ていた。

「ねえ、咲羽ちゃん……」

彩音が、ぽつりと呟く。

「……私たちって、今、どういう関係なのかな」

咲羽の眼差しが、揺れた。

「それって……」

「昨日、手を繋いで。でも……言葉ではっきりしてなかったから。ちゃんと、したいなって」

俯いた彩音の横顔は、どこか頼りなくて――けれど、とても真剣だった。

「恋人になるって……どうしたらいいんだろう」

咲羽は胸の前で両手を組み、迷うように視線を落とす。

「私も、よく分からない。でも……ちゃんと“好き”って思っています。昨日より、今日のほうがもっと」

彩音は、その言葉にゆっくり顔を上げ、まっすぐに咲羽を見つめる。

「……じゃあ、教えてくれる? 恋人って、どんなふうに手を繋ぐのか」

一瞬、咲羽は目を瞬かせて――ふっと笑った。

「たぶん、こうやって……自分から、ぎゅってするんだと思います」

そっと差し出した咲羽の手が、彩音の指に優しく絡む。

昨日よりも、少しだけ強く。だけど、優しい力で。

彩音は、その温もりにほんの少し目を細めた。

「……ありがとう。これが“好き”って気持ちの、形なんだね」

二人の手のあいだに流れる時間は、不器用で、まだ始まったばかり。

けれど、そのぎこちなささえも、二人の恋を確かなものにしていた。


私たち――白雪彩音と島野咲羽の胸には、淡い希望が心に膨らんでいた。

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