芝生の光と約束の海(前編)

 連休の中日、秋の陽射しが心地よく降り注ぐ朝――。

 駅前の広場には、穏やかな風と人のざわめきが漂っていた。

 咲羽は、少し早めに着いた改札前で、そわそわと足元を見つめていた。

 胸の奥が、くすぐったいように波打っている。いつもと違う私服姿で彩音と会うのは、これが初めてだから。

「……早く来ないかな……」

 咲羽は、袖を軽く握ってみる。水色の長袖Tシャツに紺色の上着、白色のスカート。秋らしい色合いにしたけれど、彩音にどう見えるだろう、と不安が募る。


 その時、ふわりと風が吹いた。

 そして、その向こうから――聞き慣れた、けれどどこか柔らかい足音が近づいてくる。

「……咲羽」

 はっと顔を上げると、改札から現れたのは彩音だった。

 ピンク色の長袖Tシャツに白い上着、黒のチェック柄スカート。制服の時とはまた違う、少しだけカジュアルで、でもどこかお姉さんのような雰囲気。

「彩音、ちゃん……!」

 思わず声が弾んだ咲羽に、彩音はふっと微笑んで近づいてくる。

 その微笑みに、咲羽の緊張も少しずつ溶けていった。

「……待たせた?」

「ううん!私も今、来たところ……!」

 咲羽は照れ隠しのように笑いながら、手提げのリュックをぎゅっと抱えた。

 彩音も、自然な仕草でその隣に並ぶ。

「今日は、いい天気でよかったね」

「うん、まさに“お出かけ日和”って感じ……」

 そう言って二人は駅を後にし、歩道橋を渡って、ゆるやかに開けた住宅街を抜けていく。

 道沿いにはツツジが咲き誇り、風に乗って甘い香りが漂っていた。

「ねえ、咲羽」

「ん?」

「……今日、楽しみにしてた?」

「えっ、う、うん……すごく!ずっと、昨日からそわそわしてたの……彩音ちゃんと、初めてふたりで遠出するから」

「……私も」

 静かにそう答えた彩音の横顔に、咲羽はまた心臓がどきんと跳ねた。

 穏やかな空気が、二人を包んでいた。

 やがて住宅街を抜け、バス通りを一本越えると、潮の香りがふわりと風に乗って届いた。

 海浜公園までは、あと少し。

 見えてきたのは、広い芝生と木製デッキ、そしてその向こうに広がる海。

 水面はきらきらと陽を反射し、どこまでも穏やかだった。

「わあ……!」

 咲羽の目が輝き、自然と歩幅が速くなる。

「すごい、海が……こんなに広いなんて……!」

「……ふふ、咲羽の顔、見てると来てよかったって思える」

 彩音の声が、風の中に優しく響いた。

 海浜公園に吹く潮風は柔らかく、耳元で髪を揺らすたびに、どこか懐かしい音がする。

「……彩音ちゃん、あれ見て」

 咲羽が楽しげに指を差す先には、ふわりと浮かぶ白い雲がゆっくりと流れていた。

「ほら、あの雲、イルカみたいだよ」

 彩音はゆっくりと目を細めて見つめる。

「イルカ……うん、本当だ。可愛いね」

 咲羽の笑い声が潮風に溶けていくようで、彩音はその声を胸の中にそっと刻んだ。

「ねぇ、彩音ちゃん」

 少しだけ声を潜めて、咲羽がぽつりと言った。

「今日は、こうして二人でお出かけできて、本当に嬉しい。ありがとう」

 彩音はその言葉に少し驚いて、咲羽の目を見つめ返す。

 普段は恥ずかしそうにする彼女が、真剣な表情でこちらを見つめている。

「私のほうこそ、ありがとう、咲羽」

 そう答えながら、彩音はほんの少しだけ笑みを浮かべた。

 咲羽は嬉しそうに頬を染めて、少しだけ俯く。

「……えへへ、変だよね。私、ちょっとはしゃぎすぎかな?」

「ううん、そんなことないよ。でも、転ばないように気をつけてね?」

 彩音は優しく声をかけ、咲羽の手をそっと握った。

「だって……嬉しいんだもん。彩音ちゃんと、こうして遠くまで来られたの。ずっと、したかったから」

 そう言うと、咲羽は軽やかに陽だまりの芝生を駆けだした。

 風に揺れるスカート、その後ろ姿は、いつにも増して輝いて見えた。

 彩音は少しだけ間をおいて、ゆっくりと歩を進める。

 その時、咲羽がふいに振り返った。

「彩音ちゃん、来てよ……早く」

 満面の笑みとともに、彼女の瞳は真っ直ぐに彩音を見つめていた。

 その表情は、声よりも雄弁に、はっきりと伝わってきた。

 ――『大好き』って。

「……バカ。そんな顔、ずるいよ」

 彩音はそう呟きながらも、足取りは自然と速くなる。

 芝生の小道を抜けて辿り着いた海沿いの木製デッキは、少し冷たい風が吹いていた。

 咲羽は手すりに寄りかかり、遠くをぼんやりと見つめていた。

 彩音が隣に立つと、咲羽は嬉しそうに振り向き、口元を緩める。

「さっきの顔……すごく綺麗だった」

 ぽつりと呟く彩音の声は、波の音に溶け込んで、けれどどこか力強く響いた。

 咲羽は驚いたように目を見開き、すぐに恥ずかしそうに目を伏せる。

「……そ、そんなこと……ただ嬉しかっただけ。彩音ちゃんが、私の隣にいてくれるから」

 その声は、潮風と波音に混じって、彩音の胸にじんわりと沁み入る。

 彩音はゆっくりと目を閉じて、深く息を吸い込んだ。

 胸の奥に詰まっていた言葉が、今日は少しだけ素直に出せそうな気がした。

「ねぇ、咲羽……私、今日、あなたの隣に来られてよかった」

「……うん」

「だって、その顔をずっと見ていたいって思ったから」

 咲羽の頬がほんのり赤く染まり、けれど逃げる素振りはない。

 その代わりに、そっと彩音の手を握ってきた。

「ありがとう、彩音ちゃん。私も、今日、すっごく幸せだった……それだけで、胸がいっぱいになるくらい」

 繋いだ手のぬくもりは、夕陽の光とともに、二人の心を優しく包んでいく。

 咲羽はふいに顔を上げ、ぱっと笑顔を弾けさせたかと思うと、次の瞬間、くるりと身体を回して芝生の上に駆け出した。

「うふふっ……気持ちいいね、彩音ちゃんっ!」

 春の風が優しく吹き抜ける。

 咲羽の髪が風に乗ってふわりと揺れ、左右に結んだ水色のリボンがひらひらと舞い上がる。

 水色の長袖Tシャツの裾が風に膨らみ、白色のスカートがふわっと広がった。

 太陽の光が差し込み、芝生の緑が眩しく輝いていた。

 咲羽の姿はその光の中で、まるでひとひらの花びらが宙を舞うように、軽やかで楽しげで、ただただ、綺麗だった。

「転ばないでねー」と声をかけると「だいじょうぶ〜っ!」と声を上げた。

 振り返りながら手を振る咲羽の笑顔は、秋そのものだった。

 足元の芝が彼女のステップに合わせてさわさわとそよぎ、スニーカーの茶色がやけに映える。

 小さな蝶がふわりと彼女の周囲を舞い、咲羽は「わっ」と小さく声を上げて、くすぐったそうに笑う。

「ねぇ、彩音ちゃん、見て! 走ると風がもっと気持ちいいよ!」

 咲羽は両手を広げて、まるで空を飛ぶ鳥のようにスキップしながらくるくる回った。

 そのたびに髪とスカートが大きく揺れ、光の粒がきらきらと舞い上がるようだった。

 彩音はそんな彼女の姿を目で追いながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。

 まるで、世界が咲羽を中心に優しく回っているような錯覚さえ覚える。

 ――この風も、この光も、この瞬間も、全部咲羽の笑顔に包まれている。

 彩音の頬にそっと風が触れる。

 ほんの少し眩しそうに目を細めながら、咲羽の無邪気な背中にそっと呟く。

「……本当に、奇麗」

 咲羽はしばらく陽だまりの中をくるくると駆け回ったあと、ふと立ち止まった。

 風に揺れるスカートを押さえながら、こちらを振り返る。頬はうっすらと上気し、瞳は太陽の光を受けてきらめいていた。

「彩音ちゃん……来てよ、早く」

 呼びかけるその声に、彩音の胸が小さく震える。

 言葉の意味よりも、その笑顔に――何か、大切な想いがこもっているように感じられた。

「……バカ。そんな顔、ずるいよ」

 ぽつりと零した呟きは、自分でも驚くほど優しかった。

 それでも、足は自然と前へ進んでいた。

 咲羽の待つ場所へ、芝生を踏みしめる一歩ごとに、心が近づいていく。

 咲羽はじっと彩音を見つめていた。風が彼女の髪を揺らし、頬にかかる前髪をくすぐっている。

 それでも咲羽は動かず、ただそこに立ち尽くして、彩音の到着を待っていた。

 彩音が近づくと、咲羽はふわっと笑った。

「えへへ……嬉しいな。なんか、夢みたい」

「夢って……そんなにはしゃいでおいて、よく言うよ」

 苦笑まじりに返すと、咲羽はまた「えへへ」と笑った。

「だって、現実でも、こんなに幸せになれるんだって思わなかったから……」

 その小さな呟きが、彩音の胸にじんわりと染み込んでいく。

 頬に吹きつける風が、ほんの少し冷たく感じられた。

 気がつけば、二人は手を繋いでいた。

 咲羽の指がそっと彩音の指を絡める。細くて温かい指先が、まるで「大好き」を伝えるように――そっと、彩音の手を包んだ。

「……咲羽」

「うん?」

「……ありがと。今日、来てよかった」

「私も……すっごく、よかったよ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る