02


 翌日、夏期講習が終わった教室で理玖は五ノ坪を捉まえた。

「五ノ坪」

 話があると、理玖は思い切って切り出そうとする。しかし、後ろから咲姫が現れて「あら小川君。なあに?」とにっこり笑うと、言葉を飲み込んでしまった。


「何だよ、小川」

「いや、また」

 理玖はすごすごとその場を逃げ出した。完全に負けている。分かっている。


 五ノ坪の頭の上にはピンクと紫の粉が乗っかっている。理玖の頭にもそれはある筈だ。だが誰も気が付かない。五ノ坪も気付いていない。見えるのはどうやら理玖だけのようだ。


 せっかく魔女に恋のタマゴを貰ったのに、確かに二人の間でタマゴは割れてピンクや紫の粉が二人に降りかかったのに、恋はいっかな始まる気配がない。そして、五ノ坪と咲姫が一緒に帰ってゆくのを、理玖は指をくわえて眺めるだけだ。


 どうすればいいのか。どうすればはじまるのか。一ヶ月の期限はどんどん過ぎてゆくのに。気ばかり焦る毎日だ。

 魔女に聞こうとあの公園に行ってみても現れない。白昼夢でも見ていたのか。でも鏡に映る自分の頭には、ピンクと紫の粉が乗っかっている。


 タマゴの有効期限は一ヶ月だ。たった一ヶ月しかないのに告白も出来ない。何て意気地なしなんだ。嫌われるのが怖いんだ。自分に向かって笑いかける、その笑顔を失いたくない。

 それでも告白ぐらい…………、出来ない。


「よう、小川。明日こそ映画行くだろ」

 五ノ坪が誘ってくる。

「ああ、うん」

 もう嫌とも言えないで頷いた。五ノ坪の側には咲姫がいる。

「いい、小川君に貸してあげるの一日だけよ」

 ニコニコ笑って、勝ち誇ったような顔で注文をつける。映画を見に行くのは五ノ坪と理玖だけだ。

「何だ、五ノ坪。もう尻に敷かれてんのか」

 友人たちが二人を冷やかす。

「えー、そういう訳じゃないけどー」


 咲姫は笑いながら、ちらりと理玖を見て言う。意味ありげな視線だ。咲姫にはもう理玖の気持ちがばれているのだろう。理玖の頬が少し染まる。恥ずかしさと悔しさで。さっさと、その場から逃げ出した。


 約束の土曜日。咲姫のあの意味ありげな視線が気になった。五ノ坪は咲姫に言われて止めるかもしれない。いや、止めなくても理玖に対する態度が変わるかもしれない。軽蔑されたらどうしよう。

 しかし、五ノ坪は予定通りに待ち合わせ場所に現れた。


「よう、行こうぜ」

 浅黒い彫りの深い顔はいつもと同じ表情。理玖と肩を並べて歩く態度もいつもと変わらない。


 五ノ坪は平均身長ある理玖よりも頭半分背が高い。あまり物事にこだわらないおおらかなというか大雑把な性格をしていて、頼りになる男といった感じ。


 優柔不断で物事をいつまでも悩むタイプの理玖は、何度五ノ坪に救われたことか。

 咲姫から何か聞いているにしても、いつもと同じ態度で接してくれるのがありがたい。


 一緒に映画を見て食事をして、話して。他愛ないことで笑い合った。

 もういいか……。

 頭の上に乗っかっているピンクと紫の粉を見ながらそう思う。


「何?」

「なんでもない」

 こうして一緒に居られるだけでもいいか。


 考えてみれば一ヶ月間だけ恋人でいても、その後はどうなるのか分からないのだ。正気に戻ると魔女は言った。毛嫌いされてそのままって事も有り得るわけだ。

 このまま親友としていられる方が──。



 その日は夏期講習も終わって夏休み最後の登校日の日だった。理玖は部活に顔を出して、帰るつもりで部室に立ち寄った。部室の中から女の子の話し声が聞こえる。

「だって、そうでしょ。普通の男の子は女の子の方を選ぶよ。それが当たり前だよね」

 話しているのは咲姫だ。そっと開け放たれた窓辺に近寄ると、仲のよい女の友達と二人で、内緒話でもするように声を潜めている。

 理玖は入るのをためらって、そこで足を止める。

「私のこと睨むの。嫉妬みたいにしてさ、男の癖に」

「えー、小川君がー!?」

 自分の名前が出てぎくりと周りを見る。近くには誰も居ない。

「彼は?」

「五ノ坪君? 笑っているよ。可愛いんだろうね。親分子分って感じ」

「咲姫は妬かないの?」

「邪魔しないよ。私の方が勝つに決まってるもん」

 咲姫はそう言って自信ありげににっこりと笑う。

「相手が女より男の方がいいでしょ。いろいろと」

 理玖は男だ。確かに女の子には敵わない。だが理玖にだってなけなしのプライドがあった。


(くそう。頭にきたぞ。タマゴの有効期限はまだあったっけ)

 理玖はそのまま先に家に帰って、携帯で五ノ坪を呼び出した。

「五ノ坪。俺んちに今から来いよ」

「どうしたんだ?」

「来るだろ?」

 訳は言わずに強気に出た。

「ああ、分かった」

 別に深く問いもしないで五ノ坪が答える。夏休みを棒に振って、気が付けばもうタマゴの有効期限は一日しかない。最後だ。



 家には誰も居ない。やって来た五ノ坪を部屋に通して、菓子やらコーラやらを用意して部屋に持って行く。

 しかし、五ノ坪はベッドに背中を預け、腕を組んでコックリコックリと舟を漕いでいた。理玖が入ってきたのに気付いて眠そうな目をこする。

「どうしたんだ」

「眠い。昨日、徹夜でゲームやってて」

 言う端から大あくびをかまして、ずるずると背中を預けたベッドから滑り落ちていく。そのまま横になって寝入ってしまった。

「おい、寝るなよ」

 声をかけても起きそうにない。

(まあこんなもんだよな。僕みたいな奴は。せっかくもらったタマゴも有効に使えなくて)

 理玖は溜め息を吐いて、眠っている五ノ坪の側に座り込んだ。じっとその寝顔を覗き込む。

(それにしても気持ちよさそうに眠っている。起きないかな)

「おい」

 肩をそっと揺らしてみたが、起きない……。

(キスくらい、いいよな。最後だし。記念に。頭の上の粉も、もう消えちゃうんだろうし)


 最後の日。一緒の部屋。疲れて眠る五ノ坪。お前が好きなんだ。そっと。起こさないように。眠り姫に。でかい眠り姫だよな。笑いながら頬を伝う涙。いいんだ。これで。

 好きだよ。 

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