第7章 夜の帳(とばり)


 霧雨と別れたあとも、なかなか眠りにつくことができなかった。


部屋の中は静まり返り、カーテン越しに射す月明かりが、床の木目を淡く照らしている。


 目を閉じるたびに、あの情景がまぶたの裏に蘇る。地面に横たわる山岸の身体。虚ろに見開かれた目、口元から泡を吹き出した顔、そして……鼻腔に残る、あの甘く焦げたような匂い。


 思い出すたびに、喉の奥がざわついた。

 眠ってなどいられない。あれを、ただの事故と片付けていいはずがなかった。


 ゆっくりと布団を抜け出し、音を立てぬよう上履きを手に持つ。深夜一時、寮が静まり返った時刻。

 廊下を抜け、誰にも気づかれぬよう非常階段を下りると、寮の壁沿いに、かつて先輩たちが「夜中に外へ出るために作った」と囁いていた、隠し扉の前に立った。錆びた蝶番は意外にも静かに開き、肌寒い夜気が頬を撫でる。


 外は冴え冴えとした月夜だった。星々の瞬きは淡く、校舎の輪郭を白くなぞっている。校庭には誰の足跡もなく、ただ風だけが、草を優しく揺らしていた。


 どうか、用務員の先生に見つかりませんように。

 そんな願いを抱きつつ、僕は山岸が落ちてきた校舎裏へと足を運ぶ。


 幸運にも、誰にも見つからずに現場へたどり着くことができた。納戸の前。あれほど騒ぎがあったというのに、地面は均され、髪の毛一本すら残っていない。まるで最初から何もなかったとでも言いたげな静けさだった。


 けれど、匂いは残っていた。


 ほんの微かに。常人なら気づかないほど淡く、鼻をかすめるあの匂い。甘く、焦げたような、それでいて胸の奥をざわつかせる香り。


 僕はその匂いを頼りに、静かに歩を進める。

 ふと、草むらの中に、何かが落ちているのが目に留まった。月明かりに照らされたそれは、制服の学生ボタンだった。

 拾い上げると、金属の表面が微かにひんやりしている。指先を近づけると、確かに――そこにも、あの匂いがあった。


 山岸のものかどうかは分からない。けれど、この場所から少し離れたこの位置に、なぜボタンが落ちている?

 そしてなぜ、同じ匂いが、そこに染みついている?


 僕の中に、確かな違和感と確信が同時に芽生えた。これは、偶然なんかじゃない。


 やっぱり、あれはじゃなかったんだ。


 ボタンを手のひらに握りしめたまま、僕はしばらくその場に立ち尽くしていた。風が止んでいた。時間の流れも凍ったように静かで、どこか現実味が薄かった。


 ――けれど、確かにここにある。この匂い、この証拠が。


 思わず目線を上げる。納戸へと続く裏口の方へ目をやったとき、足音がした。コツ、コツ、と規則正しく響く革靴の音。月に照らされた廊下の角から、姿を現したのは麻倉だった。

「……何をしている」

 変わらぬ低い声。驚いた様子も、怒りも見せず、ただ静かにそこに立っていた。


 僕は反射的に手を後ろに引いた。けれど、もう遅かった。麻倉の目は、すでに僕の手元を一度見ていた。


「……君こそ、どうしてこんな時間に」

「同じ理由だろう」

 間髪入れずに返される。


 その言葉が物語る。つまり、彼も気づいているのだ。これはただの事故じゃないと。


 しばしの沈黙の後、麻倉が近づいてくる。夜気に揺れる前髪、わずかに光を帯びた瞳。けれどその表情はいつものように硬いままだ。

「拾ったのか?」

 彼は僕の後ろ手にしたボタンを指した。隠しても仕方がないと思い、ゆっくりと差し出す。

 麻倉は手に取って、指先で裏面をなぞった。

「山岸のものかどうかは分からないだろう」

「匂いが、山岸が落ちる前に嗅いだ匂いが残っている。わからないか?」

「……」

 麻倉は何も言わない。ボタンへ鼻を近づけ、ただ小さく鼻を鳴らすような仕草をして、静かにボタンを僕へ返した。


「俺には何も匂わない」

「そんな、本当に匂わないのか?」

「ああ」


 鈍器で後頭部を殴られた気分だった。どうして僕だけ匂いが感知できるのか、それは僕が異常だから?

 黙り込んだ僕に麻倉は小さく息を吐いて言葉を紡ぐ。

「何も出てこなかったように見えても、この校舎にはまだ“残っている”のかもしれないな。お前が嗅いだという匂いも、痕跡も、あるべきはずの真実もな」

「だったら、どうして学校は隠すんだ。事故だって言い張って……そんなの、納得できない」


 僕の声は震えていた。怒りとも、焦りともつかぬ感情が喉を締める。

 麻倉はふと、目を細めた。その目の奥に、わずかに何かが揺れたように見えた。けれど、それは一瞬で消える。

「生徒が、こういった件に深入りすべきではないと、学校は判断している。それだけだ」

「……君も、そう思ってるのか」

「俺は風紀を守る立場だ。だが、それとは別に、事実は事実として見ているつもりだ」

 そう言って、彼は背を向ける。去ろうとしたその背に、思わず声をかけてしまう。

「……怖いのか?」


 麻倉の足が止まる。けれど振り返らない。


「自分が知っていることを口に出すのが。……それとも、僕が巻き込まれることが?」


 沈黙。


 その沈黙が、返答のように感じられた。

「寮に戻れ。これは、“探偵ごっこ”じゃない」

 それだけを残し、麻倉は再び歩き出した。

 その背中は、まるで何かを背負っているように、やけに重く見えた。


 僕はその場に立ち尽くし、手の中のボタンを、そっと握りしめた。

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