第6章 夜の帷

 医務室を出るとき、僕は麻倉に軽く頭を下げた。


「すまなかった。……ありがとう」

「風紀委員として付き合ったまでだ」

 素っ気ない言葉が返ってくる。既に授業も終わり、校舎内には人気がない。廊下に灯りはなく、窓から差し込む淡い月明かりだけが足元を照らしていた。

「じゃあ」と小さく声をかけて歩き出すと、足音がもう一つ、隣に並ぶ。


「……なんだよ」

「寮まで送る」

「はぁ? 女じゃあるまいし」

「さっきまで倒れていたんだ。途中でまた倒れられては困る」

 いつものように澄ました表情で、麻倉は半歩先を歩き出す。僕は仕方なく、それに続いた。



 ※



 外はすっかりと夜の気配に包まれていた。初夏も過ぎ、季節は秋へと移り変わろうとしている。夜風が少し肌を刺す。もう少しすれば、冬の足音が聞こえてくるのだろう。

「あ、夏の大三角だ」

 ふと空を見上げて、独り言のように口をついて出た言葉だった。

「……本当だな」


 予想外に返ってきた声に、驚いて顔を上げる。麻倉は空を見ながら、珍しく穏やかな表情をしていた。

「星、好きなのか?」

「天文学は好きだ。地球の変動説とか」

「……意外」

「失礼だな」

 そんな他愛のないやり取りを交わしているうちに、寮の前へと辿り着いた。

 麻倉は何も言わず、くるりと背を向けて歩き出す。

「あの!」

 気づけば、呼び止めていた。彼は小さく振り返る。

「……ありがとう」

「――養生しろ」

 それだけ言い残すと、麻倉は夜の中へと溶けるように歩き去っていった。



 ※



 寮の自室へ戻ると、扉の前に霧雨が立っていた。見つけた瞬間、彼はこちらへ駆け寄ってくる。

「清一!おい、どうしたんだよ、大丈夫か?」


 珍しく、心底慌てた様子だった。いつもは茶化すか飄々としているのに、その面影はどこにもない。

「……大丈夫だよ。ただ、ちょっと……、ほら、貧血、みたいなもんで」


 嘘ではないが、本当でもない。曖昧な言葉でごまかすと、霧雨はじっと僕の顔を見つめ、それ以上何も言わず、一緒に部屋の中に入ってきた。

 灯りをつけると、彼はいつものように机の椅子を引いて座り、僕の方を見て、小さく言う。

「話す気があるなら、聞くぞ」


 僕は戸惑いながら、愛用の肘掛け椅子に腰を下ろす。まだ頭の奥に靄がかかっているようで、言葉がうまくまとまらない。けれど、霧雨は黙って待ってくれていた。


「……あの、な。……山岸が、……死んだ」

 その言葉を発した途端、胸の奥がきゅうっと締めつけられる。霧雨の表情は変わらなかった。ただ、黙って、静かに頷く。

「屋上から……飛び降りた。僕は、その……現場を、見たんだ。最初、嘘だと思った。現実じゃないみたいで、息もできなかった。今も……ちゃんと思い出すのが怖い」


 霧雨は何も言わず、視線だけで続きを促す。


「……あのとき、変な匂いがした。甘くて、焦げたような、変な匂いだった。あんなの、普通じゃない。幻覚じゃない、絶対に。僕は確かに……嗅いだんだ」


 霧雨の眉がわずかに動く。けれど、驚きも嘲りもない。ただ静かに、そこにいてくれる。


「学校側は、事故だって言ってる。でも、あれが事故だなんて、どうしても思えない。匂いのことを話しても、先生は“気のせい”って……」

 声が震えていた。僕自身が、何を信じればいいのか分からなくなっていた。

「そして……麻倉は、全部“隠される”って言った。最初から、なかったことにされるって。……あいつ、何かを知ってる。でも、何も言わない。どうして、あんなに冷静でいられるんだよ……」


 言いながら、胸の奥がまた軋んだ。怒りとも、悲しみともつかない何かが渦を巻いていた。


 霧雨はしばらく黙っていた。やがて、ぽつりと一言。

「……その匂い、俺は嗅いでない。でも、お前が“あった”って言うなら、きっと、本当に“あった”んだろうな」

 その言葉に、心がじんわりと温かくなった。疑いもせず、茶化しもせず、まっすぐに受け止めてくれる――霧雨という存在の重みを、そのとき改めて感じた。


「……僕、もう、ただ黙ってるだけなのは嫌だ」


 ぽつりと漏れた言葉。それが、自分の中に芽生えた、はっきりとした“意思”だと気づく。


「山岸の死を、何もなかったことにされたくない。……あの匂いのことも、ちゃんと確かめたい。でないと……きっと、また誰かが……」

 そこまで言ったとき、霧雨は静かに頷いた。

「じゃあ、まずはできることから始めよう。俺も手伝うよ、清一」


 霧雨の声は、どこまでも優しかった。

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