01-09
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どろどろとした凝った瘴気が志恵を包む。憎悪が、怨念が、悪意が、怨嗟が、絶望が、恐怖が、憤怒が、あらゆる負の感情が前身に纏わり付き、闇へと志恵を引き込もうとする。
「嫌、嫌あっ、何、これ、やだ、怖い、助け、助けてえっ」
志恵は入って来た扉へと振り向こうとするものの、どんなに視線を彷徨わせても有る筈の光が見えない。助けを乞おうと叫んだ声は闇に吸い込まれ何処へも届かない。前後左右どころか上下すら分からず、粘度の高い黒に囚われてずぶずぶと身体が沈んで行く。
溺れる、志恵は直感的にそう悟った。この泥のような汚濁に絡め取られ、深い深い淵に静められる。死への本能的な恐怖に全身の毛が逆立つ。上手く動かせない手足で必死に藻掻き、叫び、志恵は知らず涙を流した。
「助けて、誰か──やだ、死にたくない、嫌──」
塗り込められた黒の中、抗おうと必死で手を伸ばし、首を振る。負を流し込まれ浸蝕される朧な意識の片隅で、──ちりん、と鈴の音を聞いた、気がした。
*
八色学園は概ね、八つの建物から構成されている。
北に生徒達が使う教室が揃った教室棟、南に教員室や会議室などのある職員棟、東に女子寮、西に男子寮。この四つが正方形の辺に当たる場所に設置されている。
そして正方形の角に当たる部分に、それぞれ四つの建物が存在する。教室棟と女子寮の間である北東に体育館、教室棟と男子寮に挟まれた北西には調理室やクリーニング室などのある作業棟。職員棟の左右には南東に女子寮に繋がる形で女性職員寮、南西には男性職員寮があるといった具合だ。
建物に囲まれた内側には広いグラウンドや中庭、テニスコートなどが設けられているが、建物の外側と敷地を囲う鉄柵の間には木々が植えられ、ベンチや花壇などが設置されていた。
──そして教室棟の東端、体育館へと繋がる渡り廊下から少し逸れた場所にある喫煙所では、眞柴空覇(マシバ・カラハ)がベンチに座って紫煙をくゆらせていた。
空覇の担当科目は日本史であり、クラス担任などは持っていない。寮監の仕事は夜が主で、昼間には意外と時間に空きが出来る。丁度授業の無いこの時、空覇は煙草休憩にと赴いていた次第だ。授業中にサボっているかのようなこの状況に少し罪悪感が芽生えたが、しかしヘヴィスモーカーである空覇にとって背に腹は代えられなかったのである。
ゆっくりと煙草を吸いながら考え事をしていた、──そんな時だった。
──ちりん。
不意に、空覇の耳に鈴の音が聞こえた。鼓膜を震わせる物理的な音では無い、霊的な、脳内に直接届くような音色だ。嫌な感じはしない、むしろ清らかなる存在の、しかし切羽詰まったかのような音──。
空覇は灰皿で煙草を潰すと、ベンチに背中を預け目を閉じた。意識を集中し気配を探る。霊気の網を徐々に広い範囲まで広げてゆく。この学園には膨大な数の霊や瘴気が蔓延しているが、恐らくはそんな木っ端が原因ではない筈だ。しかし探ってみてもそれらしいものは見当たらない。
ならばと平面から上下にもアンテナを広げた刹那、地の奥で凝った瘴気の溜まりから悲痛な声が届いた。
──助けて!
見えたのは沈む泥のような瘴気、汚濁の沼から抗い助けを求める少女。闇の中、必死で伸ばされる白い手。空覇は意識の中咄嗟に身を乗り出し、腕を伸ばしてその手を掴み取った。
そのまま力を込めグイ、と引き上げる。少女の身体が沼を脱し、髪に結んだ鈴がチリリと鳴った。纏わり付いていた瘴気は少女の身体を離れ、沼の中へと消えてゆく。
「──ふぅ。ちィと危なかったが、これでもう大丈夫だろ」
ぱちりと眼を開け息をつくと、空覇は再び煙草に火を点けた。ゆっくりと堪能してから立ち上がり、さて、と体育館に目を向ける。鈴の音が聞こえたのは、恐らくあそこからだ。
*
空覇が活気とは違う騒がしさに包まれた体育館を覗くと、火ノ宮と目が合った。
「──何騒いでんだ。授業中じゃねェのか」
「ああ、その、えと……実は生徒が一人、倒れてしまって」
「そら一大事じゃねェか、何おたおたしてんだ。……ちょっと上がるぞ」
「え、あ、ちょ──」
返事も聞かずに靴を脱ぎ、空覇は生徒達が集まっている中へと分け入った。錯乱気味になっていた場が空覇の登場で少し鎮まる。
輪の中、床に倒れていたのは一人の少女──志恵だった。気を失っているらしくぐったりとしたまま動かない。床に流れる長い髪の結び目に銀の鈴を見付け、空覇は彼女が先程助けた少女だと確信する。
「倒れたって、一体何があったんだ?」
空覇の問いに口々の答えが飛び交う。断片的なそれらを集約したところ、どうやら『転がったボールを取りに舞台下の収納に入ったが、出て来たら突然気を失った』という事らしい。空覇はちらと引き戸の向こうに見える闇に目を遣ったが、無言で志恵の傍にしゃがみ込む。
少し顔色は悪いものの志恵の呼吸は正常で、聞いたところによると倒れる直前まで変わった様子は無かったという。ならば、と空覇は志恵の身体を横抱きに抱え上げた。周囲から、キャア、と黄色い悲鳴が上がる。
「ちょっと眞柴先生、何処連れてくのよ!?」
「何処って保健室だよ。こっからじゃ職員棟の医務室は遠いだろ? 見たところ特に説破詰まった状態じゃ無さそうだし。このまま俺が連れてった方が早いだろ」
「そんな、上の判断も仰がず勝手に──」
「ンなの現場の判断が優先だろうが。ちんたら医者が来るの待ってる間、いつまでも床に寝かせとけってか? そっちの方がよっぽど身体に悪そうだろうがよ」
慌てる火ノ宮の言葉にも動ずる事無く、空覇はお姫様抱っこの状態で出入り口に向かって歩みを進めた。遠巻きに見守る生徒らは未だに黄色い声で騒いでいる。手を使わずに靴を履いてから、そう言や、と空覇は火ノ宮に視線を向けた。
「──こいつのクラスと名前、教えてくんね?」
「今更それ言う? ……二年一組の羽々木さんよ、羽々木志恵。私が担任の先生には知らせておくから、保健室に説明お願いね」
「了解。じゃ、頼まァな」
ニッと笑い背中を向ける空覇に、キャーとまた生徒達から悲鳴が漏れる。火ノ宮は呆れながらも、大きく溜息をついてから授業の続きをするべく生徒達に向き直った。
舞台下の扉は黒々とした口を開けたまま、ただ静かに佇んでいた。
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