01-05


  *


「……何だ」


 不穏な気配を察知し空覇が扉に目を向けると、もぞり、と微かな音と共に黒い瘴気がドアの下部から漂っている。慌てずに空覇はリモコンでテレビを消し、煙草を咥えたままじっと音のする辺りを凝視する。


 ──カサ、カサリ、……ぞろり。


 不快感を呼び起こさせる音と共に、何かが寮監室へと侵入して来る。それは瘴気を撒き散らし、触覚を振りながら数え切れない数の脚を蠢かせる──。


「百足、か。この瘴気、念の籠もった気配……ただ迷い込んだって訳じゃ無さそうだな」


 それはドアの下方に空いた隙間を潜り、長い身体をくねらせ、てらてらと照明を反射しながら空覇へとにじり寄ろうと進んで来る。濃く凝った黒い瘴気に、空覇は鼻を鳴らし紫煙を吐いた。元来、虫や蛇は煙草の匂いや煙を嫌がるものだが、この百足にそういった様子は見られない。


 短くなった煙草を灰皿に押し付け、空覇は一旦辺りをざっと見回した。テーブルに投げ出したままの新聞紙を手に取ると、動じる事無くゆっくり百足へと近付く。束のまま広げた新聞を百足の進行方向にそっと配置した。そこへ百足が乗り上げ、やがて中央まで進むのをじっと見定める。


 そして、おもむろに──右手を振り上げ、素早く振り下ろす。


 右手に握っていたのは荷解きに使ったステンレスの鋏だ。鈍い刃先で頭を潰し、尾を裂き、胴体を何度も突き刺す。苦しげに暴れる百足の脚先が新聞紙に擦れ、カサカサカサと乾いた音を立てた。


 冷静に、注意深く、百足に直接触れないよう気を付けながら何度も繰り返し、──ようやく百足が動きを止めると空覇はやっと詰めていた息を吐く。まだ死んではいない百足を包むように新聞紙を畳むと、その上からスリッパで踏み付け、にじるように体重を掛けた。


 音も無く足裏で砕ける気配と共に、小さな光の粒子がふわり、散った。新聞紙を広げてみるがそこには何の跡形も無い。新聞と鋏を無造作に掴み机に放り投げると、空覇は再び煙草に火を点ける。


「消えたって事は、あれは操られてた生き物じゃなくて、既に呪物に成り果ててたってこったな。恐らく蠱毒かなんかなんだろうが……」


 紫煙を吐き、口の端を吊り上げ空覇が笑う。スゥと切れ長の眼をより鋭くし、見定めるように扉を見詰めた。


「挨拶か、警告か、はたまた小手調べか。誰がやったか知らねェが──何にせよ、この程度でどうにかなるとか思って貰っちゃア困るな。ナメられる訳にはいかねェよな」


 クク、と笑いが漏れる。立ち昇る紫煙はうねるように流れ、千々に乱れながら夜へと溶けてゆくのだった。


  *


 背中がじん、と熱を持つ。羽々木志恵(ハバキ・シエ)はベッドの中、眠れずに丸まり瞳を閉じていた。


 気の所為か、それとも呪符の効果だろうか。いつもより闇の気配は濃く、ざわめきは大きく近い。気付かない振りをし、目を逸らし無視していればやり過ごせるかと思ったが、平穏な眠りはいつまで経っても訪れてはくれない。


 ──ちりん、と手の中で微かな音が鳴る。いつも身に着けている組紐の鈴だ。この涼やかな音色を聞くと志恵はとても安心する。これは母方の祖母の母にあたる人、つまり志恵の曾祖母の形見だ。普段は音があまり鳴らないよう穴の中に糸の塊を入れておくのだが、こんな不安な夜にはそれを取り去って手の中で転がすのだ。


 志恵は、小さな頃から人ならざる物の声が聞こえ、姿が見えた。ただ、見える聞こえるだけでそれ以上の力は持ってはいない。そして曾祖母もそういった力があったらしく、暗がりに凝る闇を怖がる小さな頃の志恵に、この鈴を手渡してくれたのだ。


 ──『この鈴は御守りだよ、この鈴が志恵ちゃんを護ってくれる。だからいつも肌身離さず着けておきなさい』。銀で出来ているというその鈴は小さくて、でもキラキラと光を反射して、幼い志恵には頼もしく輝いて見えた。


 やがて曾祖母はそれから幾らも経たない内に亡くなり、祖父や祖母達も相次いで鬼籍に入った。小学校高学年になる頃には父が病に倒れ、そして志恵の家族は母だけとなっていた。


 祖父母の遺産も、父の残した蓄えもあり、生活に困る事は無かった。このまま勉学に励み、やがて自分が母を支えるんだ──そんな風に志恵は未来を描いていた。それが歪み始めたのは、母があの男と知り合ってからだ。


 そこまで考え、志恵は小さく首を振った。こんな事を思い出していては余計に心が沈んでしまう。弱った心に悪いものは寄って来るのだと、曾祖母はそうも言っていたではないか。


「駄目駄目、こんなんじゃ。明後日には一年生も来るんだから、ちゃんと『センパイ』にならなきゃ。しゃっきりしないと」


 そして自分の後輩になる子はどんなだろう、と思いを巡らせた。可愛い子がいいな、大人しい子かな、元気な子かな、気が合うといいな、何でも相談に乗ってあげて、何でも話せる仲良しになれるといいな──志恵はまだ見ぬ後輩を思い微笑む。


 学園の寮は一年生と二年生が二人一組で同室となり、二年生が一年生に色々な事を教えるのが慣習となっている。三年生は受験勉強に集中する為に個室を与えられるが、一年二年の間は他人と生活を共にする事で、協調性や自立心、そして同世代同士の絆を育むという意図があるようだ。


「わたし、恵理センパイみたいになれるかな……」


 志恵の同室の先輩は恵理という元気な少女だった。いつも明るく、誰にでも平等に接し、そして気弱で引っ込み思案な志恵をいつも励ましてくれた。二人はとても仲が良く、名前も相まって姉妹のようだと皆によく言われていた。それなのに──。


「……恵理センパイ、どうして消えたの。どうして、いなくなっちゃったの……?」


 何の前触れも無く恵理は失踪したのだ。毎年失踪者が出るとは志恵も噂で聞いてはいたが、まさか恵理が消えるなどとは思ってもいなかった。あんなに何でも話していたのに、消えるような素振りは一切無かった。それが志恵には、二重にショックであった。


 自然と涙が溢れる。またざわめきが大きくなる。志恵は奥歯を噛み、頭から布団を被ると手の中の鈴を握り締めた。


 遠くから窓をノックする音が聞こえる。嘲りが、笑いが響く。凝った闇が、志恵をじっと見詰めている。


 ──もう、嫌だ。どうして、どうして。


 志恵はきつく目蓋を閉じ、早く眠りが訪れますようにとひたすらに祈る。熱を持った背中がチリと痛む。奥歯を噛む音がやけに頭の中に反響する。


 ──『おいでよ、こっちへ、おいでよ』……。


 そう呼び掛ける何者かの声色が恵理の声に聞こえた気がして、また一粒、──志恵は涙を零した。


  *

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