第34話 会えない夜に、あなたたちを思う
喪失感の中で、自然と思い出してしまうのは──
ファノア村で過ごした日々、アルグレインで出張食堂に来てくれた人たちの笑顔、
ルゥとのくだらないやりとり、ナユの冷静だけどどこか優しい声。
そして、セレノアとの…あの甘い記憶。
気がつけば、もう夕方に差し掛かっていた。
閉め切った窓の向こうから、小学生たちのはしゃぐ声が聞こえる。
「……もう、こんな時間」
朝から何も口にしていなかったユイノは、重い体を引きずって台所に立つ。
誰のためでもない、自分だけのための料理を作るために。
『ねえ〜、もうお腹ぺこぺこなんだけどぉ〜!』
ルゥの声が聞こえたような気がして、ユイノは咄嗟に振り返った。
──けれど、そこには誰もいなかった。
「……」
異世界へ行く前のユイノは、人のぬくもりなんて忘れていた。
ただ“ひとりで生きる”ことが、日常だった。
──それなのに。
ファノア村で誰かと共に過ごすことの温かさを知ってしまった今、
この“生きているだけ”の現実は、静かすぎて、冷たすぎた。
そんな現実から目を背けるように、うわの空で包丁を動かし、手を止めることなく、いつものように味を見て、鍋を火にかけて……。
気づけば、テーブルの上にはずらりと並んだ、出来立ての料理。
ユイノは、その光景を見て──ようやく、はっと我に返った。
「……え……」
目の前に広がっているのは、明らかに一人分じゃない量。
肉じゃがに、きんぴらごぼう。
豆腐とワカメのみそ汁。
ふっくらと炊きたての白米。
“誰のためでもない”料理だったはずなのに
いつものように四人分で作ってしまっていた──
「はは……冷凍しなきゃな……」
自嘲気味の笑い声が、乾いた空気に溶けていく。
その笑いはあまりにも軽くて、かえって胸の奥がずしりと重くなる。
寂しさをごまかすように、ユイノは箸を取り、そっと肉じゃがを口に運んだ。
ほろりと崩れるじゃがいも。
甘じょっぱく煮染めた醤油の香りが、口いっぱいに広がって──懐かしさが胸を突く。
(そういえば、ファノア村には醤油なんてなかったな……)
次に、みそ汁をひと口。
豆腐のなめらかな舌ざわり。
出汁の旨味に、ワカメの磯の香り。
じんわりと身体が温まっていくのを感じる。
心にぽっかり空いた穴の縁を、そっと撫でるような味だった。
きんぴらごぼうを噛めば、ゴマの香ばしさと、歯ごたえのある人参とごぼうの食感が口に残る。
白米をひと口運ぶと、その一粒一粒に「帰ってきた」という現実が沁みこんでくるようで──
もう、涙が出そうだった。
「……みんなにも……食べさせてあげたかったな……」
ぽつりとこぼれた言葉は、返事のない部屋にすっと消えていった。
──ひとしきり食事を終えて、片づけもそこそこに、ユイノはソファに体を投げ出した。
テレビをつける気にもなれず、スマホを開いても、手は動かない。
時折視線が壁の時計に向かうたび、現実に引き戻されていく感覚がした。
(……あんなに幸せだったのに)
ファノア村で過ごした穏やかな日々。
アルグレインで出張食堂を開いたあの忙しくも満ち足りた時間。
誰かと協力して、一緒に笑って、一緒にごはんを食べて。
フローレディア大陸で過ごした数か月は、あまりにも鮮やかな記憶で──
それに比べて、今のこの世界は、まるで色褪せたように見えた。
ユイノは、静かに目を閉じた。
(セレノア……)
あの夜、寄り添ってくれた温もり。
不器用な言葉。震えるような優しさ。
指先がまだ、そのぬくもりを覚えているような気さえする。
(ルゥ、ナユ、クルル……)
姿も、声も、仕草も、すべてが鮮明で、愛しくて──
けれど、今のユイノには、何ひとつ手に届かない。
(戻りたい……)
ようやくその言葉が、はっきりと心の中に浮かんできた。
“あの世界へ戻りたい”
ただの夢なら、ここまで想うことはない。
こんなにも寂しさに押し潰されるような感情は、生まれるはずがない。
(でも……戻る方法なんて、わからないよ)
周りに何かがあるわけでもなく、あの日の“扉”が出てくる様子はない。
ルゥが、いつもの調子で「迎えに来たわよ~」なんてやって来る気配もない。
──それでも、ユイノは立ち上がった。
(“誰かが迎えに来てくれる”のを待つだけじゃ、きっとダメだ)
今度は、自分の意思で歩き出さなきゃいけない気がした。
あの場所へ帰るために。
“本当に大切なもの”をもう一度、手にするために。
そもそも──なぜ、自分は現世へ戻ってきてしまったのだろう。
そんな問いが頭に浮かんだ、その瞬間だった。
今朝見た、あの夢が鮮明によみがえる。
「……マドカ……」
小さく漏れた声とともに、胸の奥にひりつくような想いが押し寄せる。
大切な親友との、果たせなかった“約束”と後悔。
──借金を返し終わったら、また一緒に遊ぼうね。
あの言葉が、ずっと心のどこかに残っていた。
だからこそ、今を逃したら──
もうマドカには会えない。そんな気がしてならなかった。
(……もしかして、私が“戻された”のは……)
その理由を考えるには十分だった。
ユイノは初めて“自分自身の心残り”に向き合うべき時が来たのかもしれない。
「……会いに、行かなきゃ」
思わずそう口にした瞬間、自分の中に灯るものがあった。
異世界への想いは、確かに残っている。
けれど今、この現世で果たすべきことがあるのなら──
それを終えなければ、きっと、また前には進めない。
スマホを手に取ると、ユイノはマドカの連絡先を開いた。
最後のやりとりは、数年前のもの。
震える指先で、新たに言葉を打ち込む。
「マドカ久しぶり!元気にしてる?」
──送信。
送った後、胸の中に残ったのは不安ではなく、
どこか、温かい予感だった。
(……もし、返事が来なかったとしても、それでも…)
“伝えようとした”ことに、きっと意味がある。
ユイノはそう信じて、ゆっくりと画面を伏せた。
そして、窓の外を見る。
暗い夜空の中で、ひときわ強く輝く星を見つけた。
にじむ街の明かりに負けじと、夜空の隅で微かに瞬いている。
『空だけは、ユイノのいた世界も、ここも同じなのよ。』
あの日、星湯亭の湯船に揺られながら、ルゥがふと言っていた言葉。
不思議と心に残っていたその一言が、ふいに胸によみがえる。
もしあの言葉が本当なら──
この星も、あの世界の空に輝いているのだろうか。
セレノアも、ナユも、ルゥも、同じ空を見上げてくれているのだろうか。
都会の空に浮かぶ星は、あの日のように澄んではいない。
だけど、たとえ遠く離れていても──
私の想いは、きっとあの空の向こうにも届く。
そう信じたくなるような、夜だった。
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