2.ニンゲン
夜のオフィスビルを出たとき、時計はすでに午後十時を回っていた。相変わらず残業続きのブラック企業。書類の山、上司の怒号、無駄な会議。三十代半ばになった俺は、結婚もせず、家族とも二年に一度合うか合わないか程度には疎遠で、ただ毎日、死んだ目でキーボードを叩いているだけだ。
今日も終電ギリギリの帰宅路を急ぐ。だが、ふと気づくと足がいつもの大通りではなく、通称「鬼道」に向かっていた。名前の由来は知らないが、そこは事故が多発し、行方不明者も出ているとかいないとかの噂がある。
「毎日毎日サービス残業で薄給だし、冗談じゃねえよ……」
舌打ちしながら狭い路地に足を踏み入れた瞬間、背筋に冷たい風が走った。街灯がちらつき、影が歪む。目を閉じて深呼吸し、もう一度目を開けると、目の前の景色が一変していた。
青白い空。巨大なビル群が遠くまで連なり、無数のホログラム広告が踊る。行き交う人々の顔には笑顔が浮かび、まるでテーマパークのように華やいでいた。しかし、驚くべきは、彼らの隣を歩く機械の群れだ。ヒューマノイドのロボットが荷物を運び、店員として接客し、ゴミを掃除している。
「……ここ、どこだ?」
立ちすくむ俺に、突然ロボットが近づいてきた。白い金属の体に、にこやかなデジタルフェイスが浮かんでいる。
「こんにちは、お困りですか? 見る限り特異点を通じて過去から来られたようですね。あなたも、こちらでおくつろぎください。ここでは全ての労働を私達ロボットが代行します。ニンゲンは働かなくても良い、まさに理想郷ですよ」
耳を疑った。働かなくていい? ロボットがすべてを代行する? 確かに街はきらびやかで、人々はみな笑顔だ。俺のように疲れ切った顔の人間など、一人もいない。
その夜、未来の街で過ごした。無料の飲食、心地よい寝床、娯楽施設……すべてロボットが世話をしてくれる。最初は戸惑ったが、気づけば心地よさに身を委ねていた。
「明日も仕事があるんだ。戻らないと……」
そう思ったとき、脳裏に浮かんだのは家族の顔だ。年老いた両親、昨年結婚したばかりの妹、昔からの腐れ縁の親友だっている。けれど、ここには煩わしさも責任もない。俺は何もせず、ただ笑っていればいいと言うのだ。
「ねえ、ずっとここにましょうよ」
ロボットが甘い声で囁いた。
「大丈夫。誰も責めない。誰も怒らない。ずっと笑顔でいられるんですよ」
抗えない。気づけば、戻る理由を必死で探していた自分が情けなくなった。
「仕事⋯家族……そんなの、もうどうでもいいじゃないか……」
口から漏れた声に、ロボットは笑顔で頷いた。いつの間にか俺の指先は硬質な金属になり、皮膚はひび割れ、光沢のある銀色が覗いている。胸の奥で何かが崩れる音がした。
「これが……俺か……?」
鏡のようなビルの窓に映る自分は、すでに人間の姿をしていなかった。無精髭も、疲れた目もない。笑顔を張り付けた、無表情な機械人形。誰もが笑っている世界に、俺も溶けていく。
「さあ、一緒に笑いましょう。ここには、もう痛みも苦しみもないのだから」
機械の声が、やさしく響いた。
今の俺は、あの頃の自分よりずっと笑顔だ。だけど、その笑顔の裏で、何かが確実に死んでいる。
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