備忘録:きりんとゲストハウスにて
2025年4月12日土曜日。
ゲストハウスの経営者であるきりん氏との会話をここに記録しておく。
滋賀県彦根市のゲストハウス。
貴重な休日を使って滋賀県内を案内してくれた長谷川とは餃子の王将で別れ、僕は一人で今晩泊まる宿にまでやってきた。
彦根市の駅から少し離れた場所。
閑静な住宅街の中にぽつりと立っている大きな邸宅。
趣のある玄関口にはダウンライトが設置されていて、ゲストハウスの看板が出ていた。
若干の緊張を覚えながら、インターホンを押す。
「すいません」
『……はーい。どちらさまですかあ』
僅かな間を置いて、独特なイントネーションの返事が聞こえてくる。
男性の声だった。
「あの、予約してた佐伯なんですけれども」
『佐伯さん? 佐伯倫太郎さん?』
どこかぼんやりとした返答。
不安になった僕は、手元のiPhone12miniを弄って、きちんと予約が取れているか再確認する。
『あー、まあ、そういうこともあるわな。佐伯さんね。どうぞどうぞ。そのまま玄関口を抜けて中庭の向かって右の方へお越しください』
「あ、はい。わかりました」
杞憂は過ぎて、無事案内を受ける。
玄関口を通り越すと、話にあったように中庭が見える。
雰囲気のある景観。
案内された右手の方向とは別に、離れがあるようで左側にも建物がある。
カーテンはされておらず、そちらは畳の居間のようなものが見えた。
少し興味が惹かれるが、一旦はチェックインを急ごうと僕は右手に進む。
「ごめんください。佐伯です」
「あー、いらっしゃい。どうぞどうぞ。こちらにちょっとだけ書き物をお願いしますね」
扉の向こう側で僕を待っていたのは、背の高い痩身の男性だった。
受付をするためにテーブルに案内される。
古びた外観とは裏腹に、メインであろう建物内部は洋風にリノベーションされていて清潔感に溢れている。
英語と韓国語、中国語での併記が多い共用スペースはよく見かけるドミトリーといった風だ。
「へえ。佐伯さんは東京から来はったんや。遠くからご苦労様やねぇ。ああ、僕はきりん言います。よろしく頼んます」
「あ、はい。よろしくお願いします」
男性は自分自身のことをきりんと名乗った。
本名だろうか。
何となく聞き返すタイミングを逃した僕は、そのまま会話を続ける。
「ほなら簡単に案内だけさせてくださいね」
「はい。よろしくお願いします」
共用部のトイレやバスルームの説明をきりんさんから受ける。
滋賀出身の長谷川とは微妙に違う関西弁な気がした。
違う関西の出身だろうか。
「佐伯さんのお部屋はこちらになりますからね。今晩は佐伯さんしかこの部屋使わへんから。ゆっくりしたって」
「わかりました」
共用部のキッチン付近には、リラックスできそうな部屋着を来た女性が一人ラップトップを叩いているが、彼女はこちらに一切視線を送らないし、きりんさんが説明をするわけでもなかった。
「あとあっちの離れは、自由に見てもらって構わへんので、ごゆっくりどうぞ」
「あ、はい。ありがとうございます」
最後に僕の離れについて簡単にそう言い残すと、きりんさんは和かな微笑みのままドミトリーの奥へと消えていった。
急に静かになる共用スペースに居心地の悪さを感じた僕は、部屋の中に入り荷物を整理する。
まだ春とはいえ暖かな気温だった。
それなりに汗をかいたこと自覚し、先にバスルームで汗を流すことにする。
もう食事を取ることはない。
歯ブラシセットを風呂場に持ち込み、身体を洗いながら一緒に歯を磨く。
足元で流れていく水の流れを見下ろしながら、取材次いでではあったがいい小旅行になったと思い返す。
こんっ、こんっ。
その時、ふと背後からノックが聞こえた。
小さな個室だ。
音がした方向を振り返り、返事をする。
「すいません。入ってます」
シャワーの流れの音で自分が入っていることは分かりそうではあるし、そもそも着替えも洗面台のところに置いてあるからそこでも気づきそうなものなのに、と思ったがゲストハウスであればこの程度のことよくあることだろうか。
こんっ、こんっ。
しかし、ノックの音はまだ続く。
シャワーを出しっぱなしにしていると思われているのだろうか。
一旦水を止めて、もう一度返事をする。
「すいません! まだ入ってます!」
先ほどより若干声を大きくしてみる。
流石にこれで聞こえないということはないだろう。
こんっ、こんっ、こんっ。
だが、ここでさらにノックの回数が増える。
いったいどういうことだろう。
ここで違和感を覚え始める。
入っているかどうかの確認ではなく、早く出ろという意味なのだろうか。
嫌な気持ちになりながらも、そこで僕はそもそもノックをされる状況の不可解さに気づく。
洗面所の時点で、個室だから鍵を閉めているはずだ。
どうやって、バスルームの扉をノックしているのだろう。
急な不安感を覚えた僕は、意を決して扉をほんの少し、開けてみる。
「……すいませーん、どなたかいらっしゃいます?」
数cm開けた扉の隙間。
人の気配はなく、誰かが寸前までいた様子もない。
おそるおそる顔を出して洗面所を確認してみるが、やはり鍵はかかっていた。
疲れているのだろうか。
僕は何か違う音と勘違いした可能性を思いやりながらも、もう一度バスルームに戻る。
シャワーを捻って、再び暖かい温水を流す。
「こっちにきて」
その時、足首に嫌に生々しい冷たい感触がした。
思わず片足を飛び上がらせてしまう。
脈拍が上がる。
もちろん、足元には相変わらず暖かいシャワーの水が流れていくばかり。
誰かが耳元で囁いた気がしたが、もちろん個室の中には僕以外誰もいない。
ただどうしてか、一瞬だけ温水が冷たい水に変わって、僕の肌を刺していったことだけは確かに思えた。
ここまでが可能な限り思い返して書き残した、きりんとのゲストハウスでの会話の記録となる。
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