静かな問い

 ナミネは写真を手に、ゆっくりと階段を降りた。


 キッチンの奥、使い込まれた木のテーブルの向こうに、父が一人、湯気の立つ湯呑を手にして座っている。

 小さなラジオからは、港の天気予報が淡々と流れていた。

 仕事帰りの漁師らしい重たい沈黙が、部屋全体に漂っていた。


 ナミネは少しだけためらってから、写真をそっと差し出す。


 「……ねえ、お父さん。これ、見たことある?」


 父はわずかに眉をひそめ、手を止めて写真を見つめた。

 その表情は読めない。だが、ほんの一瞬――まるで何かが心をかすめたように、目の奥が揺れた。


 「……いや。見たことはないな」


 返ってきた言葉は短かった。けれど、ナミネはすぐには引き下がらなかった。


 「でも、お母さんが書いたメッセージがあるの。この海の向こうで、また会えるって……」


 父は湯呑に目を落としたまま、静かに言った。


 「母さんのことは……俺より、お前の方がよくわかってたんじゃないか」


 その声に怒りも悲しみもなかった。ただ、深い海の底のような重さがあった。


 ナミネは言葉を飲み込んだ。

 父とは昔から、何かを語り合ったことがあまりなかった。

 それでも、今の返事には、どこか「知らないふりをしている」ような気配が残っていた。


 「……ありがとう。ごめんね、変なこと聞いて」


 そう言って写真を胸元に戻すと、父は何も言わず、ただうなずいた。



 その夜、ナミネは久しぶりに母の夢を見た。


 まるで霧の中に立っているようだった。

 水のせせらぎが、どこか遠くで聞こえる。

 白い光の粒が、静かに空から降りてくる。


 ――そこに、母の姿があった。

 顔はよく見えない。ただ、あたたかな気配と、懐かしい声が心に届いた。


 「ナミネ……あなたなら、きっと見つけられる」


 母の声が風に乗って響いた瞬間、目の前の霧が少し晴れた。


 その向こうに、広大な海と、空に浮かぶ島々――

 そして、七つの異なる光を放つ場所が、かすかに見えた。


 ナミネはその中心に、青く輝く球体が立っているのを見た。

 それは、現実のどこにも存在しない、けれど確かに“かつてあった”何かだった。


 目を覚ましたとき、ナミネの胸の奥にはひとつの確信が残っていた。


 母の残した言葉は、ただの言葉じゃない。

 これは、始まりなんだ。

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