第2章 別れを言った幽霊

2-1

 それから若者グループの小競り合いとか神輿渡御でのケガとかはあったけれど、そういうものは、まあ、祭の常だからね、大きな問題にはならず、神楽は予定通り午後7時に始まった。

 客席はその1時間前には満席となっており、始まった頃には20人ほどの立ち見もいた。立ち見客はその後も増え続けた。


 東朱美が出演する「序の舞」から神楽は始まった。

 本来は子どもが演じていたそうだが、村から子どもが急激に減った20年ほど前から小柄な女性が演じるようになったそうだ。

 残念ながら私は古典芸能にくわしくないので、能の「序の舞」との関係を論じることができないが、おそらくは最初の神楽という意味で「序の舞」と呼ばれているだけだろう。

 内容としては神招かみおぎというべきものだよ。祭の場に神を招いて神楽をご鑑賞くださいという意を表わす舞だろうね。


 演技が終わって楽屋に戻ってきた朱美は、ペットボトルのスポーツドリンクを一気に飲み干すと、「ちょっと康さんの様子見てくる」と言って拝殿に続く渡り廊下を歩いていった。

 しかし、5分も経たないうちに戻ってきて、「だめ、ぐっすり寝てる」と言って楽屋の隅に座り込んだ。

「ええ、寝てるぅ?」それを聞いた東利和が素っ頓狂な声を出した。

 それまで壁に寄りかかってうつらうつらしていたのだが、朱美の言葉でスイッチが入ったみたいに立ち上がったのだ。

「俺がたたき起こしてくる」

 と言って利和が拝殿の方に歩き出そうとすると、朱美が寄ってきてその肩に両手を置いて座らせた。

「なに焦っているのよ。あの人の出番は明け方なんだから、今のうちに寝かせておけばいいのよ。それより、義兄にいさんの出番、次の次でしょ? ちょっとはおさらいしておいたほうがいいんじゃないの? 義兄さん左利きだから、時折、所作が逆向きになっちゃうじゃない?」

「ああ、そうだな――」

 義妹に言われて急に不安になったのか、利和は共演者のところへふらふらっと歩いていき、段取りなどを確認し始めた。

 そこへ、相撲取りのような体格の男が楽屋に入ってきた。

「誰が眠ってるって?」男はそう言って室内を見渡した。「ああ、としか。しっかりしろよ」

「俺じゃねえよ」利和はふて腐れたように言った。「やすさんだよ。拝殿で寝てるんだとよ。いい気なもんだ」

「なんだってぇ」力士然とした男――高倉秀たかくらひでといって林業に従事しているそうだ――はふんぞり返って部屋のまん中に座り込むと、手近の茶碗に酒を注いで一口飲んだ。「あの野郎、なめとんのか。ぶっ叩いて起こしてやろうか」

「まったく、義兄さんと同じこと言わないでよ」

 朱美が化粧を直しながら言った。彼女は5番目の神楽にも出演するのだ。

「ぶっ叩くって言っても、格子があるんだから中には入れないでしょ? そんなことより、秀さんも用意しないと」

「ああ、そうか」坊主頭をかりかりと掻いて言った。「あいつ、座敷牢にいるんだったな」

「閂は内側ですけどね」

 朱美はそう言って嫣然とした笑みを浮かべた。

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