第六話 彼女の静けさ

看護師の夜勤明けは、静けさのなかにある。

病棟の廊下には、漂白剤の匂いがほんのり残り、朝焼け前の空気が窓の外からゆっくりと入り込んでくる。
ナースステーションには誰もいない。
モニターだけが、一定のリズムで心拍の音を刻んでいる。

**甲斐真知(かいまち)**は、その音に合わせるように、ボールペンで手帳をゆっくりと滑らせていた。


2025年1月15日
晴れ。
芽衣ちゃんの笑顔、あれは本物だった。
あんな表情をして死ねたのは、きっと、あの子にとって祝福だった。
智則くんは少し荒れていたけど、ちゃんと眠れたみたい。
瑠璃子先生は、最初こそ泣いていたけど、最後にはお湯の中で眠るように静かになった。
あとひとつ。
そして、わたしも。


彼女は書き終えると、そっと手帳を閉じた。
手つきは優雅で、看護師らしい丁寧さと優しさがにじんでいた。

ロッカールームで白衣を脱ぐと、胸元にかかるペンダントが揺れた。
小さな十字架──いや、よく見るとそれは五角形の金属片だった。
裏には、小さな刻印。

──「A-05」

真知はそれを指で軽く撫でた。




彼女がアパートに戻ると、部屋の中はすでに整然と片付けられていた。
冷蔵庫の中も空、窓は拭かれ、照明の傘さえ取り外されている。

テーブルの上には、ガラス瓶が3つ。

彼女はそれを1本ずつ持ち上げ、光にかざした。
中には、ほんのわずかに色づいた液体と、紙片のようなものが沈んでいる。


「全部、終わりが近いわ」


彼女は最後の空の瓶を見つめる。
それは、まだ名前が書かれていない。
ただ一言、「?」とだけ付箋が貼られていた。




夜、彼女は公園のベンチに座っていた。
薄手のコートの襟を立て、空を見上げる。
雲の間から、月が覗いていた。

隣に座る幼い少女が、おずおずと声をかけてきた。


「おねえさん、なにしてるの?」


真知は微笑んだ。


「祈ってるの」


「なにを?」


「世界が静かになりますように、って」


少女はしばらく考えて、ぽつりと呟いた。


「……それ、さみしくない?」


真知は驚いたように目を見開いた。
だが、すぐにまた微笑んだ。


「ううん。静かって、気持ちいいのよ。きっと、あなたもそのうちわかるわ」


そう言って立ち上がると、少女の頭をそっと撫で、夜の街に消えていった。




その足で、真知は一軒のバーを訪れた。
中には客がほとんどいなかった。
カウンターの端で、彼女はウイスキーをひと口だけ飲む。

バーテンダーが話しかける。


「久しぶりですね。例の子、まだ覚えてます?」


「ええ。もちろん。彼は、ちゃんと“選ばれた”の」


バーテンダーは苦笑しながら、別のグラスを拭く。


「本当にそれが、救いだったんですかね?」


真知は、グラスの底に映る自分の目を見つめながら、ぽつりと言った。


「赦されたかどうかじゃないの。
 わたしたちが、赦す側だっただけよ」


(第七話へ続く)


全二十話:乞うご期待!!

第一話  生き残った探偵

第二話  無人の探偵事務所

第三話  沈んだ窓

第四話  白い部屋

第五話  橋の下の微笑み

第六話  彼女の静けさ

第七話  あるインタビュー記録

第八話  記録という狂気

第九話  清められた姉

第十話  “あの部屋”へ

第十一話 沢渡、目覚める

第十二話 時雨のノート

第十三話 沈黙の密室

第十四話 もうひとりの声

第十五話 消された映像

第十六話 最後の告白

第十七話 交差する記憶

第十八話 祈りの花

第十九話 記録の果て

第二十話 すべてが繋がる日

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