第三話 沈んだ窓
浅間温泉のはずれにある、三部屋だけの小さな宿──「湯煙荘」。 昭和の風情を色濃く残すその建物は、観光地の中心からは外れているが、地元の常連客には根強い人気があった。
発見者は、宿の女将だった。
「お湯が冷めていくのに気づいて、声をかけたんです。でも返事がなくて……」
警察と救急が駆けつけた時、すでに浴槽の中には中年女性の遺体が横たわっていた。 首元までお湯に浸かり、まるで寝ているかのような安らかな表情。 だが、その死にはあまりに不自然な点が多かった。
検視結果によれば、死因は溺死。 しかし、手首にはうっすらと痣のような圧迫跡が残されていた。 浴槽には水を抜く操作の痕跡がなかった。浴室内の窓も、なぜか“密閉”されていた。
そして、何よりも異様だったのは──
鏡に書かれた“逆さ文字”だった。
湯気で曇った洗面鏡に、誰かが指でなぞった跡が残っていた。 その文字は、逆に書かれていたため、最初は判別できなかったが、角度を変えて見た警察官がようやく声を上げた。
「……“マタクル”?」
また来る、か。 それとも──また、殺る?
署内では、この不気味な一言が、不吉な“予告”であるとして捜査本部を設置する動きが取られた。
遺体の身元はすぐに判明した。 小林瑠璃子(こばやしるりこ)55歳 元養護教諭。十年前に退職し、以降は松本市近郊で独居生活をしていた。
「礼儀正しくて、気さくな人でしたよ。でも、何年か前に息子さんを亡くされてから、少し様子が……」 近所の住民はそう語った。
死後の部屋からは日記も見つかった。 最後のページにはこう書かれていた。
“どうしてあの子は、あんなふうに死ななければならなかったのか。 私たちは、黙っていることで、加害者になったのかもしれない。 …ごめんなさい、真知ちゃん。”
その名前を見た時、所轄の捜査員たちは顔を見合わせた。 真知──この地名で、以前何かの記録があったはずだ。 刑事のひとりが、資料室に走る。
同じころ、沢渡廉は病院のベッドで再び悪夢にうなされていた。
水の中。 静寂。 天井の照明が、赤く染まっていく。
誰かの声が、また聞こえる。
──今度こそ、全部、思い出して。
目を開けた沢渡の目には、白い天井が映っていた。 手のひらをじっと見つめる。
「……この指で、何をしてたんだろう」
彼の記憶は、少しずつ“逆向き”に繋がっていこうとしていた。
その夜、松本駅前の居酒屋で、赤堀翔太がひとり、手帳に何かを書き込んでいた。 視線の先には、テレビのニュース。
《浅間温泉で女性の変死体。自殺の可能性もあるが、不審な点が…》
赤堀は、空になったグラスに目を落とす。 独りごとのように、誰に向けてでもなく呟いた。
「……やっぱり、始まったな。 おい沢渡、ちゃんと目を覚ましてくれよ。間に合わなくなる前に」
(第四話へ続く)
全二十話:乞うご期待!!
第一話 生き残った探偵
第二話 無人の探偵事務所
第三話 沈んだ窓
第四話 白い部屋
第五話 橋の下の微笑み
第六話 彼女の静けさ
第七話 あるインタビュー記録
第八話 記録という狂気
第九話 清められた姉
第十話 “あの部屋”へ
第十一話 沢渡、目覚める
第十二話 時雨のノート
第十三話 沈黙の密室
第十四話 もうひとりの声
第十五話 消された映像
第十六話 最後の告白
第十七話 交差する記憶
第十八話 祈りの花
第十九話 記録の果て
第二十話 すべてが繋がる日
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