第19話
あの恐ろしい外交晩餐会での事件から、数日が過ぎた。
侯爵令嬢ロザリンド様は厳しく断罪され、私の無実は証明されたものの、私の心は鉛のように重く、暗い影に覆われたままだった。
私のせいで、ジークフリート殿下が命の危険に晒されたのではないか……。
私がパンなど焼かなければ、殿下はあんな苦しい思いをせずに済んだのではないか……。
私の存在そのものが、この王宮に、そして殿下の輝かしい未来に、むやみに混乱を招いているのではないか……。
そんな自責の念が、黒い霧のように私の心を執拗に包み込み、息をするのも苦しいほどだった。
今回は、殿下のおかげで私も無事でいられ、そして殿下ご自身も幸い軽い毒で済んだと伺ったけれど、もし、ほんの少しでもあの卑劣な毒が強かったら……。そう思うだけで、体中の血の気が引くような、言いようのない恐怖に襲われる。
あんな思いは、もう二度と誰にもさせたくない。特に、命の恩人でもある、ジークフリート殿下には……。
あれほど愛していたパン生地に触れることさえ、今の私には怖く感じられた。
王子殿下から与えられた、あの夢のように素晴らしい専用工房にいても、窯に火を入れる気力がどうしても湧かず、ただ時間だけが虚しく、そして重く過ぎていく。
心配して様子を見に来てくれるレオや両親にも、「少し疲れただけだから……大丈夫よ」と無理に笑顔を作るのが精一杯だった。
眠りも浅く、夜ごとあの晩餐会の恐ろしい光景や、苦悶の表情で倒れられた殿下のお姿が、鮮明な悪夢となって私を苛んだ。
もう、私にパンを焼く資格などないのかもしれない……。そう本気で思い詰めていた。
そんなある日の午後だった。私が工房の隅の椅子に力なく座り込み、一人で思い悩んでいると、静かに扉が開く音がした。
そこに立っていたのは、すっかりご回復なされたジークフリート王子殿下だった。
そのお顔にはもう苦痛の色はなく、いつものように涼やかで、けれどどこか温かい、優しい眼差しが私に向けられている。
「アネモネ」
穏やかな声で私の名を呼ばれ、私は慌てて立ち上がり、深々と頭を下げた。
「も、申し訳ございません、ジークフリート殿下! 私のせいで、殿下をあのような危険な目に……! もう、私にパンを焼く資格などございません……! 私がパンなど焼かなければ、こんなことには……ならなかったはずですのに……」
涙ながらにそう謝罪し、自分を責める私に、殿下は静かに首を横に振った。
そして、私の肩を優しく、しかし力強く掴むと、真剣な、そしてどこまでも深い眼差しでこうおっしゃったのだ。
「アネモネ、顔を上げなさい。君は何も悪くない。悪いのは、君を陥れようとした者の歪んだ心だ。君のパンは、私を救ってくれた。そして、多くの人々を笑顔にしてきたはずだ。そのことを、決して忘れてはならない」
その言葉は、まるで暗闇の中に差し込んだ一筋の、温かくて力強い光のように、私の心を優しく照らした。
殿下はさらに言葉を続ける。その声は、絶対的な誓いのように響いた。
「君がパンを焼く上で、何か障害となるものがあれば、私がこの身に代えても、その火の粉を全て振り払うと誓おう。このジークフリートの名にかけてだ。だから、アネモネ、何も恐れることはない。安心して、君の信じるパンを焼けばいい。ただ、私のために」
その力強く、そして絶対的な庇護を約束してくださるお言葉に、私はこらえきれずに涙を流し、思わず殿下の逞しい胸に顔をうずめてしまいそうになった。
殿下は、そんな私を気遣うように、どこまでも優しい声でおっしゃった。
「君は王都に来てから、休む間もなく働き詰めだったからな。私のために、そしてあの忌まわしい事件のために、心身ともに疲れ果てているだろう。……少し、心と体を休めてはどうだ?」
けれど、私は首を横に振った。殿下の温かいお言葉が、私の心に再び小さな灯をともしてくれたから。
「いいえ、ジークフリート殿下……! 私は、殿下のためにパンを焼きたいのです……! それが、今の私にできる唯一のことですから……! 殿下のお役に立ちたいのです……!」
私のその必死な、そして震える声での訴えに、殿下は少し困ったように、でもどこか愛おしそうに微笑まれた。
「まあまあ、そう焦るな。……実はな、アネモネ。気分転換も兼ねて、君に、ぜひ一緒に出席してもらいたいパーティーがあるんだ。今度はパン職人として厨房にいてもらうのではなく……私の、大切な友人としてだ」
「え……? わ、私が……パーティーに、でございますか……? それも、殿下のご友人として……?」
私は驚きと戸惑いで、言葉もなかった。パン職人としてではなく、友人として……?
殿下は、ほんの少しだけ照れたように、そして真剣な面持ちで続けた。
「ああ。……数日後に、私の誕生日を祝う、ごく内輪のパーティーが開かれるのだよ。堅苦しいものではない、本当に気心の知れた者たちだけの、ささやかな集まりだ」
王子様の、お誕生日パーティー……! それも、ご友人として、私を……?
「そ、そのようなおめでたい席に、私のような者がお邪魔しては……あまりにも場違いでございます。それに、私にはそのような華やかな場にふさわしいドレスも、持ち合わせておりませんし……」
私が恐縮して、慌てて辞退しようとすると、殿下は私の手をそっと、しかし力強く取られた。
「ドレスのことは心配するな。君に一番似合う、最高のものをこちらで用意させる。これは命令ではない、アネモネ。私からの“お願い”だ。どうしても、君に私の隣にいてほしいのだ。君がいてくれなければ、どんな祝いの席も、どんな美味しい料理も、きっと味気ないものになってしまうだろうから……」
そう真摯に、そしてどこか懇願するような眼差しで私を見つめる殿下。
その大きな手は、珍しく微かに震えているのを、私は見逃さなかった。
それは、彼がどれほど本気で、私を必要としてくださっているかの、確かな証のようだった。
私は、殿下のその真剣な想いと、彼の手の震えに心を強く打たれ、頬を熱く染めながら、しかしはっきりと頷いた。
「……わかりました、ジークフリート殿下。殿下がそこまでおっしゃるのでしたら……喜んで、出席させていただきます」
パーティーへの出席を承諾したものの、私の心はまだ完全に晴れたわけではなかった。
けれど、「殿下のために何かしたい」という強い気持ちが、私を再び工房へと向かわせる力となった。
ジークフリート殿下は「私の誕生日のパンや料理は、他の者に万全に用意させる。君はゆっくり休めと言ったはずだ……」と、心配して再び工房を訪れてくださった。
けれど、私は以前より少しだけ明るい、吹っ切れたような笑顔で答えた。
「いいえ、殿下。これはパーティーでお出しするものではございません。私個人から、ジークフリート殿下へのささやかな誕生日プレゼントとして、どうしてもお渡ししたいのです。もちろん、パーティーにも必ず出席いたしますので、どうぞご心配なさらないでくださいまし」
私が選んだのは、パンというよりも、もっと華やかで特別な、タルトだった。
ジークフリート殿下の高貴さと、彼が時折見せる優しい笑顔、そして彼の美しいアイスブルーの瞳を表現するような、繊細なタルト生地を使った、見た目も美しいフルーツタルト。
サクサクのタルト生地の上には、なめらかなカスタードクリームを敷き詰め、彼の瞳の色を思わせるような、大粒で瑞々しいブルーベリーを惜しげもなくたっぷりと飾り付けた。アクセントに、レモンピールとミントの葉で爽やかな香りを添えた「青き星空のタルト」。
その試作に没頭することで、私は少しずつではあるけれど、心の暗闇から抜け出し、パン作りの喜びを、そして誰かのために何かを作る喜びを、取り戻そうとしていた。
私が真剣に、そしてどこか楽しそうにタルトの試作をしている姿を見て、ジークフリート殿下は心から安堵したように、そして少し呆れたように、優しい眼差しで呟かれた。
「……まったく。君は本当に、パンが好きなのだな……。どんな時でも、パンのことばかり考えているようだ」
私は、その言葉に顔を赤らめ、胸の奥でそっと反論した。
(いいえ、ジークフリート殿下……私が好きなのは……私が心を込めて何かを作りたいと、そう強く願うのは……パンだけでは、もうないのかもしれません……。あなたの笑顔が見たいから……ただ、それだけなのかもしれないのです……)
その甘酸っぱくて切ない想いは、まだ言葉にして殿下に伝えることはできないけれど、確かに私の心の中で大きく、そして温かく育ち始めていた。
それが、私が心の暗闇から抜け出すための、本当の、そして確かな光の兆しとなることを、私は予感していた。
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