第3話


 あの言葉を突き付けられた翌朝、私は薄暗い部屋のベッドの上で、虚ろな目でただ天井を見つめていた。

 カーテンは固く閉ざされたままで、朝の光さえも今は私を責めているように感じられる。

 食事もほとんど喉を通らず、眠りも浅く、悪夢ばかりを見た。


「パン屋の娘のお前はふさわしくない」

「パンの匂いにはもううんざりなんだ」


 ルカの冷酷な言葉が、壊れたオルゴールのように、何度も何度も頭の中で繰り返される。

 そのたびに、胸の奥が鋭く抉られるような痛みに襲われた。

 大好きだったはずの、あの甘くて温かいパンの香り。

 それが今は、まるで私自身の存在を否定するかのように感じられ、工房に近づくことさえできなかった。

 パンの香りがしないこの部屋だけが、かろうじて私の逃げ場所だった。


「アネモネ、少しでも何か口にしないと……身体を壊してしまうわ」

「無理しなくていいから、今はゆっくり休みなさい。店のことは心配いらないから」


 父と母が心配して何度も部屋を訪れ、優しい言葉をかけてくれる。

 けれど、その優しささえも、今の私には重く、そして痛かった。

「大丈夫だから……お願い、一人にしておいて……」

 そう力なく答えるのが精一杯だった。

 二人の悲しそうな顔を見るのが、何よりも辛かったから。


 数日が過ぎ、私は少しずつ部屋の外に出られるようになった。

 それでも、工房へ向かう足は、まるで鉛を引きずっているかのように重かった。

 父や母の心配そうな視線に背中を押されるようにして、無理やりパン生地に触れてみる。

 けれど、その感触は、以前とは全く違って感じられた。

 あんなにも愛おしく、手のひらに馴染んでいたはずの生地が、今はただの冷たい塊にしか思えない。


 大切に育てていた自家製酵母の世話も、数日間怠ってしまっていた。

 弱々しくなった酵母でパンを焼いてみても、生地は思うように膨らんでくれない。

 無理に焼いてみても、焦げてしまったり、生焼けだったり……。

 焼きあがったそれは、パンと呼ぶのもおこがましい、見るも無残な塊だった。

「私にはもう……美味しいパンは、焼けないのかもしれない……」

 その絶望的な事実に、何度も涙が込み上げてきた。

 パンを焼くという、かつては何よりも私の心を照らしてくれた行為が、今は恐怖と苦痛の対象に変わってしまっていた。


 パンを焼いて食べてもらうという行為は、私にとっては、幸せのおすそ分けだった。

 今は肝心の私が、まったく幸せじゃない。

 そんなので、他人を幸せにすることができるの?

 そう考えると、余計にパンを作る気になれなかった。


「パン屋の娘だから、ルカに捨てられたんだ……」

 そんな考えが、一度浮かぶと、もう頭から離れない。

「私には、パンを焼くことしか取り柄がなかったのに……それすらもダメになってしまったら……私には、何の価値もないじゃない……」

 鏡に映る自分の姿は、ひどくみすぼらしく、色褪せて見えた。

 あの男の言葉通り、私はただの「パンの匂いが染みついた、価値のない女」なのだと、そう思えてならなかった。


 店は父と母がなんとか切り盛りしてくれていたけれど、私がいないことで活気はすっかり失われ、常連さんたちの足も少しずつ遠のいているようだった。

 そのことを伝え聞くたびに、両親への申し訳なさで胸が押しつぶされそうになる。

 でも、今の私には、何もできなかった。


「アネモネちゃん、大丈夫かい? 顔色が悪いようだけど……」

「アネモネちゃんの焼いたあのライ麦パンが食べたいんだけど……もう焼いていないのかい?」

 心配した常連さんたちが、時折訪ねてきてくれる。

 けれど、私は誰にも会いたくなくて、いつも母に「今は少し体調が悪くて、お客様には会えないと伝えてほしい」とお願いしてしまった。

 そのたびに、母が悲しそうな顔をするのが、本当に申し訳なくて、自分の不甲斐なさにまた涙が溢れた。


 町では、私の婚約破棄の噂が、心ない人々の間で囁かれ始めていることも、風の便りに聞いていた。

「ルカ様、もっといいところのお嬢さんとご婚約なさるらしいわよ。やっぱり、パン屋の娘じゃ、釣り合わなかったのねぇ」

 そんな言葉が、まるで鋭いナイフのように私の心を切り刻む。

 私はますます心を固く閉ざし、部屋の隅で膝を抱えることしかできなかった。


 食欲もなく、ただ部屋でぼんやりと時間をやり過ごすだけの日々。

 そんなある日、ふと、幼い頃の記憶が蘇った。

 初めて父にパン作りを教わった日のこと。

 小さな手で一生懸命生地をこねて、顔中を小麦粉だらけにしながらも、焼きあがった不格好なパンを、父が「美味しい、美味しいぞ、アネモネ!」と、満面の笑みで食べてくれた。

 あの時の、父の誇らしげな顔。

 そして、つい先日、落ち込んでいた私に言ってくれた言葉。

「お前のパンは世界一だと思っているぞ」

「お前は、お前の信じる道を、胸を張って進みなさい」

 その言葉が、今は固く閉ざされた私の心の扉を、ほんの少しだけ、優しくノックするような気がした。


 母は、毎食、私の部屋にそっと食事を運んできてくれる。

 その日、トレーの上には、いつもお粥と一緒に出してくれる、私が以前焼いて冷凍しておいたレーズン入りの丸パンが一切れ添えられていた。

 それは少し硬くなっていたけれど、おそるおそる口に含むと、素朴な甘さと、そして確かに私が込めたはずの愛情が、じんわりと舌の上に広がった。

 その温かさに、こらえきれずに涙が一筋、頬を伝った。

 パンは、何も悪くない。私が、勝手に傷ついて、パンから逃げていただけなんだ……。


 雨上がりの、まだ少し湿った空気が漂う午後だった。

 部屋の窓からぼんやりと外を眺めていると、店のドアを遠慮がちにコンコン、と叩く音が聞こえた。

 また誰か常連さんが心配して来てくれたのだろうか……。

 そう思って、私はまた母に断ってもらおうとベッドから起き上がろうとした。

 けれど、聞こえてきたのは、小さな、子供の声だった。


「あの……アネモネおねえちゃん……いますか……?」


 応対に出た母の声と、それに続くか細い声。

 それは、いつも私の焼くうさぎの形をしたクリームパンを「だあいすき!」と言って買いに来てくれる、小さな男の子、ティムくんの声だった。


「アネモネおねえちゃんは……? アネモネおねえちゃんのパン、もう焼かないの……? ティム、アネモネおねえちゃんのうさぎパン、食べたいよ……」


 泣き出しそうに震えるティムくんの声が、閉め切った部屋のドアを通り抜けて、私の耳にはっきりと届いた。

 その瞬間、私の心臓が、ドクン、と大きく脈打った。

 ルカに否定された、パンの匂い。

 もう誰にも求められないと思っていた、私のパン。

 でも……私のパンを、こんなにも純粋に、切実に求めてくれる人が、まだここにいる。

 その事実に、私の心は激しく揺さぶられた。

 涙が、今度は悲しみからではなく、もっと別の、温かい感情から込み上げてくるのを感じた。


 ティムくんが帰った後も、私はその場からしばらく動けずにいた。

 私は、一体誰のためにパンを焼いていたんだろう……?

 ルカのためだけじゃ、なかったはずだ。

 私のパンを「美味しい」と言ってくれる人がいる。

 私のパンで、笑顔になってくれる人がいる。

 そのことを、私はいつの間にか、忘れてしまっていたのかもしれない。


「もう一度……焼いてみようかな……」


 ぽつりと、自分でも驚くほど小さな声が、唇からこぼれ落ちた。

「あの男のためじゃない。私のパンを愛してくれる、たくさんの人たちのために……ううん、今はまだ、そんな大きなことは言えないかもしれないけれど……」

 私の脳裏に、ティムくんの泣きそうな顔が浮かんだ。

「ただ、ティムくんのために、あのうさぎパンを焼いてあげたい。そして……何よりも、私自身のために」


 その夜、父と母が寝静まった後、私はそっとベッドを抜け出した。

 震える手で、久しぶりに工房の扉を開ける。

 ひんやりとした空気の中に、微かに残る小麦粉の甘い香り。

 ゆっくりと深呼吸をし、私は壁にかかっていた愛用のエプロンを手に取った。

 そして、薪を手に取り、静かに眠っているパン焼き窯へと向かう。

 まだ顔には涙の跡が残り、瞳には拭いきれない不安の色が浮かんでいる。

 けれど、その奥には、夜明け前の空のような、微かな、けれど確かな決意の光が宿り始めていた。

 この手で、もう一度、パンを焼くのだ、と。


 

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