第十話 さよならは終わりじゃない
(一)さよならを言う日
教室の窓が開いていて、初夏の風がそっと吹き込んでくる。
カレンダーの赤い丸が、日ごとに近づいていた――それは、ミッシェルがフランスへ帰る日だった。
「もうすぐ夏休みだね!」
「どこに遊びに行く?」
「うちの両親、台南に連れてってくれるって!」
クラスメートたちは、嬉しそうに夏休みの予定を話し合っていたけれど、ミッシェルはただ静かに、自分の席で窓の外の青い空を見つめていた。
彼女の気持ちは、みんなとはすこしだけ違う方向へと進んでいた。
そう――彼女は、もうすぐこの場所を離れなければならない。
それは、数日間のちょっとした旅行ではなく、本当の「別れ」だった。
「自分の国に帰る」って、うれしいことのはず。
けれどミッシェルの心は、知らず知らずのうちに少し沈んでいた。
パパの仕事の都合で決まったことだから、もうどうにもならない。
でも、実際に「さよなら」を言う日が近づくと、やっぱり胸がきゅっとなった。
「ミッシェル。」
リン・チーハンがそっと隣の席に座ってきて、小さな声で言った。
「元気なさそうだよ。」
ミッシェルは、無理に笑ってみせた。
「大丈夫よ。ただ……最近ずっと、どうやってみんなに『さよなら』って言えばいいのかって、そればかり考えてたの。」
チーハンはミッシェルの肩をポンポンと軽く叩いて、わざと秘密めいた声で言った。
「大丈夫だよ。安心してて。実はね、みんなでこっそり、あるおっきなサプライズを準備してるんだから!」
ミッシェルは思わずきょとんとして聞き返した。
「えっ? サプライズ?」
チーハンはウインクしながらにっこり笑った。
「今はまだ内緒。楽しみにしててね!」
そう言って、にこにこしながら走っていってしまった。
ミッシェルは自分の席に座り、黒板の「もうすぐ学年末テスト!がんばろう!」の文字を見ながら、心の中で寂しさとほんの少しの期待が入り混じるのを感じていた。
(さよならって、やっぱり簡単じゃない。でも……もしかしたら、思っているほど怖くないのかもしれない。)
(二)お別れ前の教室
今日は、ミッシェルが登校する最後の日。
翌日にはもう、フランスへ帰ることになっている。
最後の学級会の時間の前、四年二組の教室は不思議なほど静かだった。
クラスの全員が「ひみつの任務」でどこかへ行ってしまい、教室に残っているのはミッシェルとリン・チーハンのふたりだけ。ふたりは窓際に並んで立っていた。
窓の外は明るい陽射し。
初夏の風が窓のすき間から吹き込み、教卓のそばに落ちていたチョークの粉をそっと巻き上げる。
「もうすぐ、クラスの誰かが図書館の小教室から呼びに来ると思うよ。」
チーハンが静かに言った。
「みんなで、あるすっごく大事なイベントを準備してるから。」
ミッシェルはチーハンの顔を見上げて、風のように軽い声で言った。
「お別れ会でしょ……みんなの演技、ちょっとわかりやすすぎるよ。」
チーハンは一瞬びっくりして、それから声をあげて笑った。
「えっ、それじゃ全部バレてたの?」
「だって、それしかないじゃない?」ミッシェルも笑いながら言った。
「でも、みんなが一生懸命準備してくれてるの、ほんとうにうれしいんだ。」
少し言葉を止めてから、ミッシェルはやさしいまなざしでチーハンを見た。
「チーハン……本当にありがとう。わたしがこの学校に来た最初の日から……もしあのとき、チーハンがずっとそばにいてくれなかったら、きっともう学校に来たくないって思ってたと思う。」
チーハンはうつむいて、そっと首を横にふった。
「わたしは、できることをしただけ。でも、本当にがんばったのはミッシェルだよ。」
「でもね、もし最初に手を差し伸べてくれる人がいなかったら、わたしはその手のつかみ方を知らなかったと思う。」
ちょうどそのとき、窓の外からやわらかな風が吹き込んできて、教室の光がゆらっと揺れた。
ミッシェルはふと、教室の隅の一角――ずっと空いていたあの席に目を向けた。
ちょうど陽の光が差し込んでいて、椅子の上に静かに降り注いでいた。
まるでひとりごとのように、ミッシェルは小さな声でつぶやいた。
「シャオロウ……元気にしてるかな。」
あの午後の部屋、はちみつジュースのぬくもり、そしてあのまっすぐでおだやかな瞳を思い出す。
たった一度の短い時間だったけれど、あの時間が二人の間に本当のつながりを残してくれた。
チーハンはミッシェルの横顔を見て、そっと言った。
「きっとね……シャオロウも、ミッシェルのこと思ってるよ。」
ミッシェルはその言葉を聞いて、口元にふんわりとやさしい笑みを浮かべた。
その笑みには、少しのさびしさと、あたたかな痛みが混じっていた。
もう一度会えるかどうか、それはわからない。
でもミッシェルにはわかっていた。
あの友情は、もう心のどこかに、しっかりと根を下ろしているのだと。
ちょうどそのとき、教室のドアが軽く二度、ノックされた。
入り口には男女ふたりのクラスメートが立っていて、そのうちのひとりがにっこりと笑って言った。
「準備できたよ。もう来ていいって。」
チーハンが立ち上がり、ミッシェルの背中を軽く叩いた。
「さ、行こ。」
ミッシェルは深く息を吸ってから、もう一度だけ窓の外の陽射しに目をやった。
そして一歩踏み出し、チーハンと並んで教室を出た。
――自分のために用意された「さよなら」と「祝福」の旅へ向かって。
(三)お別れ会のサプライズ
図書館の小教室のドアが開いた瞬間、ミッシェルは思わず小さく息をのんだ。
今日の学級会がここで行われることも、みんなが自分のためにお別れ会を準備してくれていることも、彼女はすでに知っていた。
それでも、小教室に足を踏み入れたとたんに目に飛び込んできた光景に、ミッシェルはしばらく言葉を失った。
小さな教室には飾り付けがなされ、黒板には色とりどりのチョークで「ミッシェル、さようなら!また会おうね!」と書かれている。
テーブルには大きなケーキと、いろいろな軽食やジュースが並び、壁にはクラスメートたちが作った手作りの飾りや写真が貼られていた。
みんなは小さなカードや折り鶴、絵や自分で選んだプレゼントを手にしていた。
「ようこそ、お別れ会会場へ~」
チョウ・ユーシュエンが手を振りながら駆け寄ってきた。
「知ってたかもしれないけど、あらためてちゃんと言わなきゃね——サプラーイズ!」
チャン・ズーエンが、カラフルな手作りノートを差し出す。
「みんなで作った記念帳だよ。ひとりずつ、メッセージや絵を描いたの。写真を貼ってくれた人もいるよ!」
「ぼく、超かわいく描いたミッシェルの似顔絵、載せたから!」
リー・シンアンがすかさず付け加える。
「ぼくは、転校してきたばかりのころのミッシェルの、ガチガチに緊張してた顔を描いたんだよ〜」と、チョウ・ユーシュエンが笑いをこらえながら言う。
「わたしは、3人で笛を練習してたときの絵を描いたよ!」
と、リン・チーハンが続ける。
ミッシェルがページをめくると、見覚えのある文字が次々に現れる。
字が斜めになっていたり、やたらと大きかったり、何度も消して書き直した跡があるものもあった。
でもどのページにも、あたたかい言葉が並んでいた。
「どこにいても、ずっと笑っててね!」
「フランスに帰っても、わたしたちのこと思い出してくれるといいな。」
「いつか台湾に来ることがあったら、また絶対会おう!」
ミッシェルの目に涙がにじんだ。けれど、涙をこぼさないよう必死でこらえる。
「わたし……なんて言えばいいか、全然わからないよ……」
そのとき、ガオ・ジーカイが色紙を一枚差し出してきて、真面目な顔で言った。
「ほら、オレからのプレゼント!」
「これなあに?」
ミッシェルが目をぱちぱちさせる。
「サイン入り色紙。オレが将来、有名なサッカー選手になったときに価値が出るから!」
ミッシェルが受け取って見てみると、そこにはこう書かれていた。
「To ミッシェル・シュウ
ガオ・ジーカイ直筆サイン——心からの祝福と……愛をこめて」
ミッシェルが顔を上げると、ジーカイはすでに耳まで真っ赤になっていて、あわてて言い足した。
「ち、ちがうよ!?『愛』っていっても、あれだよ?アイドルがファンに向けて言うみたいなやつだからな!?誤解すんなよ!」
教室中に笑い声が広がった。
そのとき、陳先生が前に出てきて、手を叩きながらみんなを静かにさせた。
先生はミッシェルを見つめ、穏やかだけれど力強い口調で言った。
「ミッシェル、この一年、四年二組にたくさんのあたたかさとすてきな思い出をありがとう。これからどこに行っても、今日の日のことを、そしてわたしたちのことを心のどこかで思い出してくれるとうれしいです。そしていつか、また台湾に来ることがあったら、わたしたちは今日と同じように、笑顔であなたを迎えます。」
ミッシェルは静かにうなずいた。
目から涙がひとすじ流れたが、その顔には笑顔が浮かんでいた。
「みんな……ありがとう。本当に、出会えてうれしかった。」
鼻をすんとすすって、もう一言続けた。
「最初は、学校に行くのが怖くてたまらなかった。言葉もうまく話せないし、友だちもいないし……でも、みんなが少しずつ近づいてきてくれて、声をかけてくれて、助けてくれて、わたしはもう怖くなくなった。失敗もしたし、泣いた日もあったし、ドジもいっぱいしたけど……でも、笑って、泣いて、時々ケンカもして、それでもずっと一緒にいられる友だちができた。この時間は、きっと一生忘れません。」
ミッシェルは記念帳をそっと胸に抱き、笑いと涙をともに分かち合ってきた友だちの輪の中に立った。
(四)校門の別れ
翌朝、空は磨き上げたガラスのように澄みわたり、空気には、夏の始まりを思わせる香りが漂っていた。
校門のそばには、すでに一台のタクシーが止まっていた。トランクには二つのスーツケース。ミッシェルのパパが運転手と空港までのルートを確認していて、ママはそっとミッシェルの手を握って立っていた。
そのすぐそばでは、リン・チーハン、チョウ・ユーシュエン、リー・シンアン、チャン・ズーエン、そしてガオ・ジーカイの五人が、校門の前で並んでいた。誰もが、その目に別れの淋しさをにじませていた。
「ミッシェル!」
チーハンが真っ先に駆け寄り、ぎゅっとミッシェルを抱きしめた。
「毎日毎日、絶対にミッシェルのこと思い出すからね!」
「フランスに帰っても、ぼくらのこと絶対に忘れないでよ!」とシンアンが大声で言った。「忘れたら、飛行機に乗って会いに行くからな!」
「約束したんだからね。三人で笛の演奏会に行くって!」ズーエンが真剣な表情で言う。
「それに、記念帳、大切にとっておいてよ!」ユーシュエンも続けた。
ミッシェルは笑いながらうなずいた。でも目元はもう、赤くなっていた。
目の前にいる、それぞれの顔を見て、一人ずつ抱きしめ、そしてママのもとへ戻る。
最後に立っていたのはジーカイだった。彼は何も言わず、ポケットに手を突っ込んだまま、くしゃくしゃになった小さなカードをミッシェルの手にそっと押し込んだ。
ミッシェルが見ると、それは小さなサッカーのシールで、そこにはこう書かれていた。
「君が帰ってきたら、オレの試合を見に来てくれ。」
ミッシェルが顔を上げてジーカイを見つめると、二人はそっと微笑み合った。
運転手の促す声が聞こえてきて、パパが車のドアを開けた。ママが目で合図する。
ミッシェルは大きく息を吸い込み、みんなの方を向き、声を張って言った。
「みんなのこと、大好きだよ!本当に!」
そしてフランス語でそっと一言添えた。
「À bientôt!(また会おうね!)」
ミッシェルは車に乗り込みながらも、ずっと後ろを振り返り、みんなに手を振り続けていた。
タクシーが校門を離れて走り出し、ミッシェルは窓のそばにもたれて、遠ざかっていく校舎や友だちの姿をじっと見つめた。
次第に視界がにじんでいく。風が目元をかすめたからか、それとも心の奥の思い出が静かに目を潤ませたのか——
脳裏には、これまでの出来事が次々とよみがえってきた。
初めて登校した日の、緊張と不安。
次の日の朝、チーハンとユーシュエンが笑顔で校門で待っていてくれたこと。
昼休み、自分のお弁当を取り出したとき、クラスメートの言葉に傷ついて早退した日のこと。
シンアンの色えんぴつのことで疑われたけど、チーハンが信じてくれて、勇気をくれたあの日。
ズーエンとはぶつかりながらも、笛の練習を一緒に頑張った時間。
リレーの選手には選ばれなかったけど、クラスのために全力で応援した運動会。
グループチャットの書き込みに傷ついた日。けれど、そのおかげで知ったジーカイの気持ち。
泣き出しそうだったバス停で、ヒーローみたいに現れてくれたジーカイの姿——
みんなで出かけたあの日々。山の風の中で笑った声と流した汗。
そして、あの午後——シャオロウと初めて出会った日。多くは語らなかったけど、気持ちだけは確かに通じ合った。
——たくさんの迷いと涙と疑い、そして確かな成長。
「どこにも自分の居場所がない」と感じていたあの女の子は、今、こんなにもたくさんの思い出と名前を胸に抱いている。
ミッシェルはそっとリュックの中に手を入れ、記念帳を握りしめた。
そのぬくもりと重さは、まだ書き終えていない物語のようだった。
ミッシェルは知っていた。
その物語は、これからもずっと続いていくのだと。
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