第15話 地獄の始まり

 一夜明けて、私は重い足取りで学校に向かった。


 昨夜は一睡もできなかった。彩音に秘密を知られてしまったことが頭から離れず、拓翔とのメッセージのやり取りも、いつもの楽しさを感じられなかった。


『紀子、今日は大丈夫? 僕はずっと君のことを考えてた』


 朝一番の拓翔のメッセージに、私の心は少しだけ温かくなったけれど、不安のほうが大きかった。


「正直、怖い。桧葉さんがなにをするかわからないから……」


『なにかできることはないか、って考えてるんだけど、いい案が思いつかなくて。話を聞いてあげることしかできなくて、本当にごめん』


「拓翔が謝る必要なんてないよ。考えてくれていることが嬉しい」


『もしなにかあったら、すぐに連絡して。僕もなにか方法を考えるから。一人で抱え込まないで。いいね?』


 拓翔の優しさが、今は逆に辛い。彼にはなにもできないことがわかっているから。それでも拓翔を安心させたくて「うん」と返事を送った。


 教室に入ると、彩音はいつものように友だちと楽しそうに話していた。私と目が合うと、彼女はにっこりと笑って手を振った。

 その笑顔が、私には悪魔の微笑みに見えた。


 一時間目の授業が終わると、彩音が私の席にやってきた。


「おはよう、神林さん。今日も彼氏とメッセージしてるの?」


 小さな声だったが、その言葉に私は凍りついた。クラスの誰かに聞かれたらどうしよう。


「そんなの……桧葉さんは気にしないでください」


「昨日はごめんね。でも、本当に面白いものを見せてもらったわ」


 彩音の目が意地悪く光る。


「お願い、誰にも言わないで。お願いだから」


「う~ん、どうしようかなぁ……」


 彩音は指を唇に当てて、わざとらしく考えるポーズをした。

 意地悪なことを言っているのに、そんな顔も仕草も綺麗に見える。


「それにしても、神林さんって意外と積極的なのね。『愛してる』なんて、恥ずかしいセリフをメッセージで送り合うなんて」


 さっきよりも大きな声で彩音が話しだす。

 私の顔が真っ赤になった。周りの席の人たちが、何事かと振り返って私を見た。


「桧葉さん、声が大きい……」


「ごめんなさい。でも、素敵だと思うよ? 『会わない恋人』なんて、ロマンチックじゃない」


 今度は、明らかに周りに聞こえる声で言った。近くにいた女子数人が、興味深そうにこちらを見ている。


「やめて……」


「なにをやめるの? 私、褒めてるのよ?」


 彩音の声は表面的には優しいが、その表情は完全に私をからかっている。


「神林さんの彼氏って、真鍋拓翔っていうのよね。素敵な名前」


「本当にやめてってば!」


 私は思わず大きな声を出してしまった。教室がざわめく。私なんかに彼氏がいる……それが興味を惹いてしまった。


「やだぁ、そんなに興奮しないで。みんな、神林さんに彼氏がいるって知って、びっくりしてるだけなんだよ」


 気がつくと、クラスの半分くらいの人が私たちのほうを見ていた。


「神林さんに彼氏?」


「うそでしょ?」


「信じらんない。相手、どんな人?」


 クラスメイトたちのざわめきが、私の耳に痛いほど響いた。


「でも残念なことに、その彼氏とは会ったことがないのよね。『会わない恋人』なんだって」


 彩音の声は、もう完全に教室全体に響いていた。


「会わない恋人ってなに?」


「ネット恋愛ってこと?」


「神林さんが?」


 私は机に突っ伏して、両手で耳を塞いだ。でも、クラスメイトたちの声は容赦なく聞こえてくる。


「桧葉さんやめて……お願いだから、もう……本当にやめて……」


 私の小さな声は、教室の騒めきにかき消された。


「みんな、そんなに興味深そうにしないで。神林さんが困ってるじゃない。だた恋をしているだけなのに、そんな興味を持ったら神林さんが可哀想だよ?」


 彩音は表面的には私をかばうような口調だったが、その実、火に油を注いでいるだけだった。


「でも、ネット恋愛って危険じゃない?」


「相手の正体がわからないし」


「写真とか交換してるの?」


 質問が次々と飛んでくる。私は答えることができず、ただ両手で顔を隠して俯いていた。


「神林さん、大丈夫? みんな酷いわね」


 彩音が私の肩に手を置いた。その手が、私には蛇のように冷たく感じられた。


「みんな、あまり詮索しちゃダメよ。神林さんのプライベートなんだから。恋愛は自由よ? そうでしょう?」


 そう言いながら、彩音は完全に私の秘密を暴露していた。

 昼休みになっても、事態は収まらなかった。


「神林さん、本当に彼氏いるの?」


「会ったことないって本当?」


「どうやって知り合ったの?」


 女子たちが群がってくる。好奇心に満ちた目で私を見つめている。


「答えてよ、なんなら、やり取りを見せてくれてもいいし」


「ねー、すごく気になるもん。いいでしょ?」


 拓翔とのやり取りを、これ以上、誰かに見られるなんてありえない。

 追い詰められた私は震え声で言った。


「SNSで……知り合って……」


「やっぱりネット恋愛なんだ」


「怖くない? 会ったことない人と付き合うなんて」


「写真は? 相手の写真見たことある?」


 私は首を振った。見たことがないのは本当だった。


「えー、顔も知らないの?」


「それって本当に恋愛?」


「神林さん、騙されてるんじゃない?」


 クラスメイトたちの言葉が、私の心を容赦なく刺していく。


「そんなこと……ない……彼は……」


 私の言葉に、周りにいたクラスメイトたちから、悲鳴に似た驚きの声が響いた。


「彼だって!」


「本当に彼氏だと思ってるんだ?」


「やだー! 嘘みたい!」


 体の震えが止まらない。聞きたくもない否定の言葉が耳に流れ込んでくる。


「でも、普通におかしいよね? 顔も知らないなんてさぁ」


「神林さん、騙されてるかもよ?」


「相手は多分、おじさんとかじゃない?」


「きもーい」


 笑い声が起こった。私は涙が出そうになった。

 そのとき、スマホが震えた。拓翔からのメッセージだった。


『紀子、大丈夫? 嫌なことがあったら、すぐに教えて』


 私は急いでスマホをしまおうとしたが、彩音の鋭い目がそれを見逃さなかった。


「あっ、また彼氏からメッセージ?」


 その言葉に、周りの女子たちの目がさらに輝いた。


「見せて見せて!」


「どんなメッセージ?」


「『愛してる』って書いてあるの?」


 私は両手でスマホを守った。でも、みんなの興味は最高潮に達していた。


「神林さん、隠さないでよ」


「ちょっとだけ見せて」


「気になる!」


 女子たちが私を囲んだ。私は逃げ場を失った。


「もう放っておいてよ……本当に……お願い……」


 私の懇願も空しく、好奇心に満ちた視線が私を取り囲んでいた。


 これが、私の地獄の始まりだった。


 拓翔との美しい秘密の関係が、クラス中の好奇の的となってしまった。そして、それは彩音が仕組んだ罠の、ほんの始まりに過ぎなかった。


『紀子、返事がないけど、なにがあったの?』


 スマホに届いた拓翔の心配するメッセージを、私は涙でにじんだ目で見つめていた。

 どうやって、この状況を彼に説明すればいいのだろう。

 私たちの純粋な愛が、こんな風に汚されてしまうなんて。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る