第十七章 挟み撃ち
館で目を覚ました刀自古は、眠い目をこすりながら白い寝巻を引きずって縁側に出た。眠りで固まった体をほぐす様に腕を伸ばし、大きく欠伸をする。
「あら、おはよう。刀自古。」
「母上。」
刀自古が振り向くとそこには、すでに化粧も終えた太媛の姿がそこにあった。朝の日を浴びていつもに増して白く見える。
「今、豊聡耳皇子と父上は。」
「えぇ。発ったわ。守屋を討つべく。」
思わず刀自古の脳裏に聞いてはいけない疑問が浮かんだ。それを頭から振り払おうと頭を振る。太媛は外を寂し気な瞳で見上げていた。
「母上は、どう思われているのですか。」
ふとこぼれたその言葉に、刀自古は口に手を当てた。
「いや、これは。い、いえ。お答えしなくていいです。」
慌ててそう言って離れようとする。
「刀自古郎女。」
その太媛の言葉に足を止めた。そしてゆっくりと振り向く。母の言う‶郎女″の言葉。太媛は、わざわざ娘を褒めてから、言葉をつづけた。
「物部が勝つか、蘇我が勝つか。……どちらにせよ、兄上か夫を亡くす。私にとってみれば、虚しい戦よ。けれどね、刀自古。あなたにだけは伝えておかないと。」
「え?」
普段と様子の違う母の姿に、刀自古は訝し気に問う。
「このことは誰にも話してはなりませんよ。」
刀自古はゆっくりと母に近付き、頷く。
「守屋も、馬子も、敵ではない。」
その言葉の意味が理解できなくて、刀自古には聞き返すことが精一杯だった。
その刀が弾かれる音がした。直後に、刃が肉を斬り割く嫌な音。そして大量の液体が地面に滴る音。それらすべてが、いっせいに訪れた。
ゆっくりと目を開ける。そこにいたのは、赤檮だった。目の前の敵に剣を突き刺す赤檮であった。そして、そこから赤い血が噴射し、あたりを真っ赤に染め上げていた。
「皇子!はよ、立て!」
豊聡耳皇子ははっとし、すぐさま手を離した刀に手を伸ばし、離れながら立ち上がる。
「勝手に死にかけんといてください!」
「赤檮のくせに偉そうに。
豊聡耳皇子は笑いながら、土手の方へ下がる。倒した敵の後方からもう一人迫っていた。
「赤檮。」
「えぇ。」
赤檮がまず前に出る。敵は刀を横なぎにふるうが、赤檮はそれを全て剣で防いだ。そして最後の一撃で敵が上から振り下ろした刀を赤檮の剣で受け止める。
その後ろから豊聡耳皇子が走り、赤檮の肩を蹴ってさらにその上から刀を振り上げる。
雄叫びと共にその刀は敵に突き刺さった。刃は首筋から背へと貫通する。
倒れた敵から刀を引き抜く。肩で息をしながら、赤檮の方を見た。赤檮も少し表情を柔らかくして、皇子に微笑みかけた。
「ようやった、赤檮。やるのう。」
皇子も頷き、二人は肘をぶつけ合った。
その時、豊聡耳皇子は喜びながらもう一度、倒した敵を見た。
腰が引け、思わずしりもちをつく。そして手で口を押える。
「なに、怖がっとるんや。お前が斬ったんやろう!」
引けた自分にそう言い聞かせて再び立ち上がる。
「……戦っとる間はああも気が立ったのに、なんでや。」
立ち上がった皇子はすっかりげっそりして、赤檮の肩に持たれながら土手を上る。赤檮は黙ってその様子を見守っていた。
土手に昇り切った豊聡耳皇子は、思わず驚く。
「赤檮、はよ!」
赤檮もそこに合流する。その下で起こっていたのは。
「なんですか、これ!」
馬子軍は南は守屋の三百の兵、北からは十数の精鋭に挟まれ、合戦場はすでに大きく荒れていた。血と鉄の匂いが混ざる。
皇子が動くより先に、赤檮が弓を構えていた。そしてその弓を放ち、敵に当てる。赤檮が当てる度、血が増える。この川に囲われた大地が、赤い湖に変わっていく。
「……なんで、戦なんや。」
皇子は拳を強く握りしめていた。
そのすぐ先で、馬子は背中を取られていた。一人の相手に剣を抜いて応戦し、互角に戦っていたが、その背後に、馬子の気付かぬ敵がいた。
「おうぅりゃ!」
その刀を弾き、その男の首をはねた男がいた。
「駒、助かった!」
馬子はその隙に相手していたもう一人の首をはねた。
「しかし、これではまるで。」
馬子がそう言った頃。
「大臣!」
そう叫んでやってきたのは、磐村である。
「このまま押されてたら、守屋を倒すどころではありやせんで!」
「解っている!」
馬子も磐村も戦いながら、そう叫んでいた。そこへ丹経手が現れた。
「奴を見た!奴がこれを率いてら!」
「奴って誰や!」
丹経手の言葉に磐村が叫ぶ。
「大臣、黒田です。奴が見えました。この軍を操るのは、黒田です!」
「黒田?そんなやつ、おったか?」
「
馬子は目を見開いた。そして悪そうに口角を上げる。
「そうか、奴が。奴がいたか!」
そう言ってうすら笑う。
「大臣、何を。」
「火だ!火が上がった!」
誰かが丹経手の言葉を遮って叫んだ。南から攻め込んだ守屋勢を馬子軍と挟むように南の平原に火があがった。馬子は土手を見る。そこには、火矢をつがえた皇子と赤檮がいた。
「今や、押し返せ!」
豊聡耳皇子がそう叫ぶと、馬子軍はその火に守屋軍を押し返す様に動き始めた。
「赤檮、我等はこいつらをやる。」
「はい。」
豊聡耳皇子と赤檮は飛び出して、北からせめてきた十数の守屋兵を相手し始めた。
「さすが豊聡耳皇子や。これで我等も勝てる!」
磐村はそう言って再び雄叫びを上げながら守屋軍へ攻め入った。しかし、丹経手は顎に手をやりながら、その様子を見てこぼす。
「……いいや、これはただ時を稼いでいるだけ。……持つやろうか。」
火の手の上がった方では、さらに火が燃え広がえり、草原を燃やしていった。赤く照り、夏の日より輝き、あたりはただならぬほど暑くなる。
血に汗をにじませながら、戦いは続く。しかし、その時である。
「なんだ、目の前が!」
豊聡耳皇子がそう言うなり、息を吸いこんでむせた。
「げほ、ごほっ!」
そうして拳を地面にたたきつけた。
「風が変わりおった。」
西からの風が山にあたって北へと吹き始め、南にはなった炎からの煙が戦場を包んだ。
「暗い。このままでは、息が出来ずに。」
そう馬子がこぼした時である。
「あっつい!息が!」
「逃げろ、死ぬで!」
馬子軍は暑さに耐えられず、ついに北の川の方へ逃げてしまっていた。その流れに馬子たちも巻き込まれる。
「ぬあ、止せ!逃げるな!」
馬子がそう言うも、誰も聞く者はいない。
土手から雪崩のように転げ落ちると、黒い煙から解放され、大和川の冷たい水にありつける。そこを目指す様に貪欲に、兵たちが逃げ延びた。
土手から転げ落ちる者、上を必死に逃げる味方に踏み潰される者、大木からの矢に撃たれる者と、そこからは再び馬子軍が押され始めた。
「おわぁっ!」
その流れに流されて、豊聡耳皇子も土手の方へ押されていった。しかし何とか横へ逃げ延び、その隊を崩そうとしていた守屋の兵を斬り割いた。
「ごふっ!……た、確かに、このままでは!」
豊聡耳皇子も口を押えながら、なんとか盛り土まで出てきた。
「山まで弾け!」
馬子のその声で、やってきた山間の方まで軍を後退させる。
「……確かに、引き際であったかもしれん。」
馬子は顎に手をやってそう考えた。
馬子たちが川を渡りきって後退しだした頃である。
「追ってや!」
その叫びのする方を見る。すると、盛り土を上り切った守屋軍が見えた。
「やったる!」
「今ここで!」
各々が叫びながら矢をつがえ剣を構えるが。
「伏せぇ!」
丹経手がそう叫んだ直後に、かなりの量の矢が空を飛んできた。それに刺さった者、頭の上をかすった者、意識を失うような風切りの音を聞いた者。
皆は、その場で地面に崩れ落ちる。
「……なんや、あいつら。」
「あんなのに、勝てるわけ!」
兵の士気は大きくそがれた。
豊聡耳皇子が傷だらけになりながら、馬子の方へ歩いてきた。
「このままでは、勝つ気で負ける。どうする、馬子。」
隣に赤檮がやってきて、豊聡耳皇子の肩を取った。
「……ここで潜むしかありますまい。志紀の軍が来てくれれば。」
そう願いながら、高くなった日に拝んだ。
その時であった。背後から煙を分けて現れた集団が、盛り土から守屋軍を突き落とす様にして前進してきた。
「なんや。」
「志紀のやつらか!」
誰かがそう言う。豊聡耳皇子がそちらを見やる。
「噛や。志紀のやつらや!」
そう豊聡耳皇子が言う。
「志紀の者共を助けに行くぞ!剣を持て!」
馬子が馬にまたがり、そう叫んで馬を飛ばした。馬子軍たちも、動ける者たちは後ろに続く。そしてついに、その守屋軍を挟んで撃った。
「……こっちの数が揃えば、呆気ないのう。」
そう磐村がこぼした。
「初めはこちらも数おった。守屋め、数に関わらず強いものは強いということや。」
丹経手がそう冷静に告げる。
馬子が噛に近付き、肩に手を置いて力強く言う。
「噛、助かった。危ないところやった。」
「間に合ってよかったです、大臣。」
「毛屎、お前もようやった。ようこやつらを連れてきおった。」
「言伝であれば、お任せください。」
そう言って二人は頭を下げた。
「並び直せ!」
馬子がそう叫ぶ。
「まだやるって。ほら、行かんと。」
疲れ果てて座り込む兵に豊聡耳皇子が手を貸して立たせた。
「努めれば、必ず生きて帰れるから。」
そう言って、皇子も自らの馬に向かった。
豊聡耳皇子が馬に乗ると、その隣で馬に乗っていた青年を見た。
「竹田皇子。生きておられたか!」
「えぇ。豊聡耳皇子も生きておられたようで。……よかった。」
最期に小さく呟いた言葉を、豊聡耳皇子は聞き逃さなかった。
「しかし、こっからやで。守屋は、気を抜いては勝てぬ。」
その重い言葉に、強く引き締まる豊聡耳皇子の顔に、竹田皇子の背筋が伸びた。
「目指すは、渋川。守屋の別業!」
そう馬子が叫び、軍は再び前進を始める。血の匂いを纏いながら。
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