第十六章 餌香川

 湿気の止まぬ、雨上がりの秋七月。蘇我馬子宿禰大臣は、諸皇子と群臣らに輿し、物部守屋大連を滅ぼさんと謀った。

 夜中、温い風のかけぬける飛鳥の平原には、幾多の騎馬兵と歩兵が並び群がり広がっている。さしずめそれは、一つの生ける者の如き。

 二千もの軍を率いていた馬子らの隊列に合流するように、一頭の馬がかけてきた。それには、毛屎が乗っている。先頭の馬子に並び、語った。

「守屋が何処にいるかまでは掴めませんでした。ですが、渋川シブカワ難波ナニワ日下クサカに分かれて敵軍はいるようです。どうされますか?」

「志紀は大和川の南に噛らを残している。我等は大和川の脇から生駒を抜ける。泊瀬部皇子、我が軍を二手に分け、北から進む者らを率いては頂けませんか。」

「……よかろう。では、春日皇子、難波皇子、葛城臣。こちらへ集いたまえ。」

泊瀬部皇子はすぐさま指示をして、平野を抜ける前に、大和川を別れる道を辿った。


 豊聡耳皇子たちの軍は、生駒を左手にして北へ向かっていた。葛城下川沿いに進んでいたのだ。皇子の隣には、迹見赤檮がついている

「……私はしばらく、一人やった。そなたの帰りを待つ間、一人やった。」

そう皇子は赤檮にこぼす。赤檮は何とも言えぬ顔で皇子を見た。

「然り、刀自古も、馬子もおったが、そうやない。」

星を眺めながら皇子はそう告げる。

「君を無くせば、私は一人なんや。」

それはため息のような掠れた声。共に、馬を少し急かした。ぬるい風に吹かれて、赤檮は汗の染みた髪をかき上げた。

「彦人皇子はどうした。こういった時、まず駆けつけると思うが。」

「馬子に関わりとうない、と。目が向いていない今は、動かぬと。」

「それは、私も解る。」

そう話しているころに、一軍の前方に火の灯りが見えた。

「馬子らだ。」

そう皇子が言って、さらに馬を急かした。


 馬子らの軍は泊瀬部皇子の率いる北軍と別れつつ、南から来た豊聡耳皇子らと合流した。そのまま、大和川が割く生駒の山間に突入していく。

「……いつの日やろう。赤檮と、父君とで、ここから船出した日があったのう。」

「ありましたね。あの頃は、父君に逆がついており、守屋と勝海もいた。」

「懐かしい頃や。」

そう言う皇子の目は過去を懐かしむそれではなかった。その先の闇を睨んでいる。

 この、生駒を超えた先にある闇。それこそを打倒さなければ、この戦には敗れる。敗れれば、命を失うのか。あの逆や勝海や、穴穂部皇子、宅部皇子のように。

 生駒の山間は、まさに川が左右に大きく振れる。波打つ蛇のように形を、方向を変えて川は一気に流れを強めて、国分の方へ出ていく。

 ふと景色が開けたと思ったその時だ。背後から光が増した。

「……あけぼのや。」

皇子がそう呟いた。その頃は、細い生駒の山間を抜けるべく、並走ではなく馬子の後ろに豊聡耳皇子らがついている。馬子はなおも先導を続けた。

 そこから北の方を見やる。白む空に大地が照らされゆき、広大な平地が顕わとなるが、そこに、妙な大木があった。

「あれです。あそこに向かいます。」

馬子がそう言った。そう、そこには、巨大な樟の形が影に現れていた。

「あれは。はっ。守屋を支える御柱か。」

豊聡耳皇子は思わず笑いながら睨む。

「北に向かいましょう。南からは噛らが攻める。我らは、来たから攻めましょう。」

「なるほど、挟むんやな。私らも行くぞ。生駒を右手に、北へ。」

そう言って進路を取ろうとしたまさにその時である。一本の矢がそこに飛び込んできた。それが一人の歩兵を射貫いた。

「……なんや、今、どこから撃たれた。」

その様子を見ていた豊聡耳皇子は思わず瞠目し、その矢が来た方向を見る。

「……有り得ない。そんな、まさか。」

となりで赤檮があることに気が付いた。

「どうした、赤檮。」

「あそこからです、皇子!」

赤檮が声を荒げて指をさす。

「真か、赤檮!」

馬子が叫ぶ。赤檮が指をさした方向にあるそれとは。例の大木である。

「山に隠れよ!直ちに回れ!」

豊聡耳皇子が叫び、大軍は方向を変えて進路を飛鳥の方へ一時的に戻した。しかし、矢がまだ飛んでくる。今度は何本も連続して。

「何故届く。守屋、奴は化け物か!」

そう叫んだのは賀拕夫だった。隊は乱れ、次々と飛んでくる矢の犠牲者が出る度に冷静を失っていった。

「逃げろ!川を渡れ!」

誰かがそう叫んだ。

「止せ、そっちは!」

思わず豊聡耳皇子が叫ぶが、時はすでに間に合わず、大軍は川に逃げ延びた。川に流されぬよう踏ん張りながら、しかし混乱で足を取られて流される者もいた。また水で身動きが取れず、矢を交わせずに撃たれた者もいた。

「馬子、もはや我らだけこっちに残ることはできまい。腹を決めよ。」

豊聡耳皇子がそう悪態を吐いて立ち止まる馬子を先導した。

「真、人に言うことを聞かすことの難しさよ。」

馬子はそうため息を吐きながら、馬を急かした。

 川を何とか渡り切った一行は、川辺から距離をとった。行く手を山と大和川、餌香川エカガワに囲まれている。

「……これは、守屋の思う通りなのではないか?」

「私もそう思います。これでは、彼らにとって我らは籠の中の鳥。」

豊聡耳皇子の呟きに赤檮が賛同した。その時である。

「敵や!撃て!」

どこかから、声が上がった。

「なんや、どこぞの者や!」

「あの黒き鎧。物部じゃ!」

豊聡耳皇子の問いに誰かが答えた。

「何?」

既に軍は大きく連携を崩していた。

 豊聡耳皇子は大和川と餌香川の川俣の盛り土に昇り、振り返る。同時に、日が刺す。

 あたりはいっせいに明るくなり、その大地の様子も浮き彫りになった。

「なんや、あれは!」

豊聡耳皇子の隣に昇ってきた赤檮もそれを見て瞠目する。

「大臣!」

赤檮は叫んで馬子へ駆け寄るが、豊聡耳皇子はそれに釘付けされたように動けなかった。

「何、それは真か!」

「えぇ、餌香川から麓にかけての狭さを埋めるほどの兵たちが迫っています!」

「志紀の軍ではないのか!」

毛屎が赤檮に叫ぶ。

「いや、確かに志紀の軍は川向うのより南におった。守屋はそれを見て我らの来るところを当ておったか。待ち伏せてここに誘いおったな!」

馬子は睨んで、彼方の巨木の陰を見やった。

 餌香川で待ち伏せていた守屋軍は三百人程度。横幅を持って攻めたて、その猛攻で馬子軍を背水に追い込んでいた。馬子軍は約千二百人。しかし、その数の差はもはや地の利を前に力を成さなかった。

「どこか、一つでええ。逃げ場はないんか!」

馬子はそう叫んだ。

「逃げ場があればええんやな!」

豊聡耳皇子が盛り土からかけて降りてきた。

「えぇ。この毛屎を逃がし、志紀の軍をここへ呼び寄せます。」

「まかせぇ。」

豊聡耳皇子はそう言って、赤檮の手を引いて盛り土を上った。二人の横顔が山から顔を出した新しい日に照らされる。

「赤檮、できるか。あの川辺の四人ヨタリを私と二人で撃つ。」

「お任せください。」

豊聡耳皇子は頷き、弓を持った。

「毛屎、走れ!餌香川の脇の道を開ける!そこから向こうへ渡れ!」

言い終える前に、毛屎は走り出した。

 豊聡耳皇子は弓に矢をつがえ、引き絞る。きりきりと弦が音を鳴らす。隣で同じように赤檮も弓を構えた。盛り土の上からでは、あたりにかすかに朝霧が纏っているのが解る。

「的を違えるな。狙うは橋の四人。放て。」

豊聡耳皇子が撃つと同時に赤檮も放った。

 川辺の四人の守屋軍は焦って逃げ惑う馬子軍の歩兵たちを何人も相手にして手をかけていた。刀を片手にそうしていたが、まず二人。一人は胸に、一人は頭に矢が刺さった。

「やるのう、赤檮。初めの矢で頭を穿つか。」

「仰る皇子も、お見事に胸を撃ち遊ばされましたが。」

二人は再び矢をつがえ、弦を絞った。

「少し待て。」

そのまま、豊聡耳皇子は乱れる戦場の兵たちの中から、毛屎の姿を見つけた。そして彼が川辺の、まさに狙いを絞る守屋軍の兵二人に接近するその時を待った。

「穿て!」

豊聡耳皇子の一声で、二人はそろえて矢を放ち、またも二人を射貫く。そのすきに毛屎は盛り土を超えて、川を渡り始めた。

「よぉし、馬子。建て直すで。」

「えぇ、今しかありません。弓を持て!弓の者らは盛り土を登れ!」

馬子がそう叫ぶ。前で剣戟を繰り返す歩兵らと、弓を持つ歩兵、馬に乗る兵らは後ろに下がり、矢をつがえ次々に放つ。前衛は膠着し始めていた。

「いつまでもつかや。」

「豊聡耳皇子!」

そこへ馬でやってきた、豊聡耳皇子よりすこし若い竹田皇子は、焦り気味に言ってきた。

「こっちの兵たちは多くが倒れ、もはや我らだけでは守り切れぬ。」

「解った。こっちから兵を出す。君は我らの後ろにおれ。」

豊聡耳皇子はそう一言言った。

「赤檮、出れる者は竹田皇子の軍が下がるのを手助けせえ。」

「畏まりました。」

赤檮は皇子の率いる軍の下へかけていき、その旨を伝えに言った。

「ここでいくらも命を失ってられへんで。守屋はもっと手強いぞ。」

豊聡耳皇子がそうこぼした。

「えぇ。苦虫ですな。」

歯を食いしばりながら、馬子が低く吐いた。

 その戦場は、矢の刺さる音、弓の絞る音、刀と剣のぶつかる音、衣の擦れ、足と地面の擦れ、踏み込みの音、そして風と少しの蝉、烏の声で飽和する。それでも、豊聡耳皇子のその耳は、異音を聞き逃さなかった。それにつられて、振り返る。

「馬子、気のせいではない。水の音がする。何者や。」

「気を付けてください。」

豊聡耳皇子は馬を降りて盛り土を上った。そして、一番上にたどり着くが、何も見つからなかった。変に思って、豊聡耳皇子は一歩踏み出し、あたりを見た。すると、再び水音がすると同時に、人影が川の水中から姿を現す。瞬間、姿勢を下げた。その頭の真上に、矢が飛び去る。

「挟まれた!こっちからもや!」

豊聡耳皇子はそう言うが、姿勢を下げた反動でそのまま川の方へ転がってしまった。

「やった。」

悔しそうにそうこぼしながら、右手を刀の柄に伸ばす。

「どうか私に力を下さい、北の星よ。」

そう言って、その剣を引き抜く。

 黒い鎧を纏ったまま、川を渡ってきたのは十数名。しかし、彼らは弓を捨てて刀を構え、豊聡耳皇子の方へ向かってきた。

「行けるか?いや、行かぬわけには。」

そう言って豊聡耳皇子は自分を鼓舞する。

「かかれい!」

誰かがそう言って、守屋軍の精鋭たちが川から一斉にあがり、豊聡耳皇子のいる土手の方へ走っていく。豊聡耳皇子は刀を前に構えた。

一人が豊聡耳皇子に向かって刀を振り上げ、その刃を振り下ろす。それを豊聡耳皇子が自らの刀で受け止め、地面は踏ん張る足で抉られた。

 そのうちに他の者らが盛り土を上って反対に攻め入った。豊聡耳皇子はほんの少しそっちによそ見した隙を見逃さず、その兵は豊聡耳皇子の刀を弾いて崩し、豊聡耳皇子はその場でしりもちをつく。刀は手から離れていた。

 目の前の兵は再び刀を振り上げる。豊聡耳皇子に目掛けて。

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