第二章 コンビニエンス・ノクターン

「でさー、そん時の店長、マジありえなくない?」


プラスチックのフォークを器用に操りながら、璃子は口を尖らせた。頬張ったナポリタンの赤いソースが、口の端に小さくついている。杏里は黙って自分のペペロンチーノを見つめ、時折フォークで麺を巻き取る。屋上の冷たいコンクリートに直接置かれたコンビニの袋が、夜風にカサカサと音を立てていた。街の灯りが、二人の簡素な晩餐をぼんやりと照らしている。


「別に。いつものことでしょ」

「それが問題なんだって。いつものことだからって、流していいわけじゃないじゃん」


璃子はむくれたように言うと、ペットボトルのお茶をごくごくと飲み干した。杏里には、璃子の言う「ありえない店長」の姿がありありと目に浮かぶようだった。璃子は時々、自分のアルバイト先での不満を杏里にぶちまける。それは杏里にとって、遠い国の出来事を聞いているような、どこか現実感のない話だった。


杏里自身のアルバイトは、深夜の古本屋の番人だ。客はまばらで、大半の時間は本に囲まれてただ座っているだけ。時折、奇妙な客が訪れることはあるが、璃子のバイト先ほどドラマチックな出来事は起こらない。それが杏里にとっては好都合だった。誰かと深く関わることもなく、ただ時間が過ぎていくのを待つ。そんな日常が、杏里の性には合っていた。


「杏里はさ、もっと怒ったりしないの? なんかムカつくこととかあっても、平気な顔してるじゃん」

「別に、平気なわけじゃないけど」

「でも、態度に出さないよね。私なんか、すぐ顔に出ちゃうのに」


璃子はそう言って、わざと眉間に皺を寄せてみせた。その表情はどこかコミカルで、杏里は思わず微かに口元を緩めた。


食事が終わると、二人はしばらくの間、何も言わずに夜景を眺めていた。遠くでサイレンの音が聞こえ、それが過ぎ去ると、また虫の声と風の音だけが辺りを支配する。璃子が不意に、小さな声で歌い始めた。それはどこかで聞いたことのあるような、ないような、メロディの断片だった。杏里は黙ってその鼻歌に耳を傾ける。璃子の声は、少し掠れていて、それが妙に心地よかった。


「この前さ、駅前で変な男の人に声かけられたんだよね」


璃子は歌うのをやめ、ぽつりと言った。


「どんな?」

「なんか、私の足、すごく綺麗だからモデルにならないかって。怪しさ満点じゃん?」

「それで?」

「もちろん断ったよ。でもさ、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、嬉しかったりして」


璃子はいたずらっぽく笑った。その笑顔は、いつも通りの屈託のないものに見えたが、杏里にはその奥に何か別の感情が隠れているような気がした。それはほんの些細な違和感で、言葉にするほどのものではない。けれど、杏里の心に小さなさざ波を立てた。


「杏里は、そういうのなさそう」

「そういうのって?」

「声かけられたりとか。なんか、隙がない感じするもん」

「そうかな」

「うん。鉄壁って感じ」


璃子の言葉に、杏里は自分の周囲に張り巡らされた見えない壁を意識した。それは他人を拒絶するためというよりは、自分を守るためのものだった。その壁の内側で、杏里はかろうじて平静を保っていられる。


不意に、璃子が杏里の肩に寄りかかってきた。第一章の時よりも、少しだけ体重がかかっているような気がする。


「ねえ、杏里」

「何」

「なんかさ、たまに全部どうでもよくなっちゃう時ってない? 生きてる意味とか、将来のこととか。考えても仕方ないってわかってるんだけど、ぐるぐるしちゃって」


璃子の声は、いつもの快活さとは裏腹に、弱々しく震えていた。杏里は何も答えず、ただ遠くのネオンサインを見つめる。その赤い光が、暗闇の中でやけに鮮明に見えた。


「そういう時、杏里とこうしてると、なんかホッとするんだよね。別に何するわけでもないけど」


杏里は、璃子の言葉を反芻する。自分もまた、この屋上で璃子と過ごす時間に、同じような安らぎを感じているのかもしれない。意味や目的を求めることから解放され、ただ存在することを許されるような感覚。


「……別に、私も同じようなものだよ」


ぽつりと漏れた杏里の言葉は、夜風にかき消されそうなくらい小さかった。けれど、璃子には届いたようだった。肩にかかる重みが、少しだけ増したような気がした。


「そっか」


璃子はそれだけ言うと、あとは黙って杏里に寄りかかっていた。沈黙が、二人の間にゆっくりと満ちていく。それは気まずいものではなく、むしろお互いの存在を確かめ合うような、温かい沈黙だった。


やがて、璃子がゆっくりと顔を上げた。その目には、先ほどの弱々しさは消え、いつもの悪戯っぽい光が戻っていた。


「さてと、そろそろお開きにしますか。明日も早いんでしょ、杏里」

「まあね」

「じゃあ、また近いうちにね。今度は、杏里の奢りでなんか美味しいものでも食べ行こ!」


璃子はそう言って立ち上がると、軽い足取りで階段の方へ向かった。その背中を見送りながら、杏里はコンビニの袋に残った空の容器を片付け始めた。


璃子が去った後の屋上は、急に静けさを取り戻した。杏里はもう一度、手すりに寄りかかり、街を見下ろす。無数の窓の灯りは、まるで星空のようだ。その一つ一つに、それぞれの人生があり、それぞれの物語が紡がれている。そのことを思うと、自分の存在の小ささが際立つようで、少しだけ息苦しくなる。


けれど、さっき璃子が残していった温もりは、まだ確かに杏里の肩に残っていた。それは、この広大な都市の中で、自分が一人ではないことを示す、ささやかな証のように思えた。


杏里は深く息を吸い込むと、静かに屋上を後にした。階段を降りる足音が、人気のない建物の中に小さく響いていた。自分の部屋に戻っても、しばらくは璃子の言葉や、肩に残る温もりの感触が消えそうになかった。

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