杏里(アンリ)が璃子(リコ)を救い出したりしたヒューマンドラマ

kareakarie

第一章 アスファルトの水平線

アスファルトが焼ける匂いが、夕暮れの気怠い空気と混じり合って鼻腔をくすぐる。是枝杏里は、古びた集合住宅の屋上の縁に腰掛け、手すりに背中を預けていた。眼下に広がるのは、どこまでも続くコンクリートの海。その向こうには、夕焼けに染まる空と、それを突き刺すように林立する高層ビル群のシルエットが見える。まるで巨大な墓標のようだ、と杏里は時折思う。


手にした細い缶コーヒーはとうにぬるくなり、アルミの感触だけが手のひらに残っている。カツン、と小さな音を立てて缶を隣に置くと、杏里は深く息を吸い込んだ。排気ガスと、どこかの家の夕飯の匂い。それがこの街の、日常の香りだった。退屈だとは思わない。ただ、何かが足りないような、それでいて何かを求めるほどの渇望もないような、そんな宙吊りの感覚が常にあった。


「杏里ー、やっぱりここにいた」


背後から聞こえた声に、杏里はゆっくりと振り返った。そこには、息を切らした出村璃子が立っていた。肩で息をしながらも、その表情は屈託がない。黒いタンクトップから伸びる腕は健康的で、杏里のそれとは対照的だった。


「なんでいるの、璃子」

「えー、別にいいじゃん。暇だったんだもん」


そう言って璃子は、杏里の隣に遠慮なく腰を下ろした。ミニスカートから伸びる脚が、夕陽を浴びて眩しい。杏里は黙って視線を空に戻す。璃子とは、特に約束をしなくてもこうして時々、どちらからともなく合流することがあった。目的もなければ、生産的な会話があるわけでもない。ただ、一緒にいる。それだけだった。


「ねえ、あれ見てよ」


璃子が指差す先には、二羽の鳩が屋上の給水タンクの上で羽を休めているのが見えた。平和の象徴、なんて言われているけれど、この街ではただのありふれた風景の一部でしかない。


「鳩」

「うん、鳩。なんかさ、あいつら見てると、どうでもよくなんない?」

「何が」

「全部」


璃子はそう言って、けらけらと笑った。杏里にはその「全部」が何を指すのか判然としなかったが、璃子の言葉には妙な説得力があった。確かに、あの鳩たちは何も考えていないように見える。ただ生きている。それだけで完結している。


杏里はポケットから、使い古されたカッターナイフと小さな木のブロックを取り出した。最近の、杏里にとっての「暇つぶし」だった。何かを作るというよりは、ただ木を削るという行為そのものに没頭する時間。シャッ、シャッ、と乾いた音を立てて木屑が舞い、アスファルトの上に落ちていく。


「またやってんの? それ、何になるの?」

「別に、何も」

「ふーん」


璃子は興味なさそうに相槌を打ちながらも、杏里の手元をじっと見つめている。その視線は、杏里の孤独な作業を邪魔するものではなく、むしろ静かに寄り添うような温かさがあった。


しばらくの間、屋上には木を削る音と、遠くから聞こえる街の喧騒だけが響いていた。夕陽はさらに傾き、空は茜色から深い藍色へとグラデーションを描き始めている。星が瞬き始めるにはまだ少し早い、そんな曖昧な時間。


「ねえ、杏里」

「ん?」

「私たちってさ、何してんだろうね」


唐突な璃子の問いに、杏里は削る手を止めた。ナイフの刃先が、夕暮れの最後の光を反射して鈍く光る。


「さあ」


杏里は短く答えると、再び木片に意識を戻した。璃子の問いは、杏里自身も時折、自問自答するものだった。けれど、明確な答えなど見つかるはずもなかった。この街で、この時代で、自分たちが何をしているのか、何者なのか。そんな問いは、このアスファルトの水平線のように、どこまでも続いていくのだろう。


「ま、いっか」


璃子はあっけらかんと言って、杏里の肩にこてんと頭を乗せた。シャンプーの甘い香りがふわりと漂う。杏里は特に反応することなく、ただ黙って木を削り続ける。璃子の体温が、じわりと肩から伝わってくる。


「今日はさ、ここで夜ご飯食べない?」

「何を」

「コンビニでなんか買ってこようよ。杏里、何がいい?」

「……なんでも」

「じゃあ、私の好きなやつね!」


璃子は楽しそうに立ち上がると、スカートの裾を気にしながら階段の方へ駆け出した。「すぐ戻るから!」という声が、次第に遠ざかっていく。


一人残された屋上で、杏里はふと空を見上げた。一番星が、遠慮がちに瞬いている。璃子の言う「どうでもいい」という感覚が、少しだけ杏里の中にも広がっていくのを感じた。意味も目的もない、ただ流れていくだけの時間。その無為な時間の中に、ほんの少しだけ、息ができる場所があるような気がした。


削りかけの木片を置き、杏里はゆっくりと立ち上がった。手すりに両肘をつき、眼下の街を見下ろす。無数の窓に灯りがともり始め、まるで意志を持った生き物のように街が呼吸している。その巨大な生き物の中で、自分たちはあまりにも小さな存在だ。


それでも、と杏里は思う。


この屋上で、璃子と過ごす無駄な時間は、決して無価値ではない。そう信じたい自分が、確かにここにいる。遠くで、璃子が鼻歌を歌いながら階段を上がってくる音が聞こえてきた。杏里は無意識のうちに、口元に微かな笑みを浮かべていた。


アスファルトの水平線は、まだ続いている。その先には何があるのか、杏里には分からない。けれど、今はそれでいいのかもしれない。

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