第19話 笑いの臨界(ラフ・ポイント)
その日、四人は再び死んだ。
ただ静かな終わり。
そして次に目を覚ましたとき、彼らは「舞台」にいた。
次なる転生先は──昭和四十二年、大阪・道頓堀。
笑いと哀しみが交錯する演芸場、角座の舞台袖。
木の軋む音、舞台奥から響く下足の音。
その中心に、ひっそりと掲げられた看板があった。
横川やすし・きよし(咲)
湿気を帯びた緞帳がきしみを上げながら、ゆっくりと上がっていく。
舞台袖から差し込む光に照らされながら、二人の芸人がマイクの前に立った。
天井の低さ、スポットライトの熱、灰色に霞んだ煙草の煙。
客席から立ちのぼる湿気と、年季の入った木材の匂いが混ざり合い、どこか懐かしい。
けれど、どこかが違う。
この感覚は以前にもあったような……そんな微かな違和感が、ふたりの背骨を伝っていく。
やすし「どうも……横川やすしと」
きよし「……きよしでございます」
間(ま)──。
最初の数秒、ふたりの呼吸は、まるで噛み合っていなかった。
だがそれが、かえって自然だった。
型にはめる笑いではない。
舞台の上で、瞬間ごとの真実を掴みに行く。
アドリブこそが、彼らの命綱だった。
ふたりの呼吸がようやく合い始めた、そのときだった。
プッ。
ほんのわずか。
けれど、確かに聴こえた。
舞台の沈黙を切り裂く、小さな破裂音。
やすしの顔がピクリと動く。
頬の筋肉が、照明の陰できゅっと緊張した。
ゆっくりと、だが確実に赤らんでいくその顔は、何より雄弁だった。
きよし「……おい、今の音……」
やすし「……え?」
観客を見ず、横を向いたまま、やすしは小さくつぶやいた。
やすし「俺ちゃう」
語気は決して荒くない。
だがそこには、明らかな防御の色があった。
「否定」ではなく、「拒絶」。
まるで、罪をかぶること自体を拒んでいるような、微細で深いニュアンス。
場内が静まった。
笑いもざわめきもない。
空気は張りつめ、すべての視線が、次の一言を待っていた。
まるで、裁判所の開廷を待つような、凍てついた沈黙。
きよしの頭の中で、幾つもの選択肢が激しく衝突していた。
──このまま流して、次のネタに行くか?
──いや、拾うべきか。
──だが拾ってしまえば、やすしはまた否定するかもしれない。
──それでも、ここは、いくべきか?
やすしの視線がきよしを射抜く。
そこにあるのは、芸人としての相方ではなく、
「人間」としてのまなざしだった。
──しかし、ここで逃げるのは自分ではない。
きよしは、口角をほんのわずかに上げた。
それは、相方に向けた合図。
そして観客に向けた「決断」だった。
きよし「……まあ、誰の屁でも、ええけどな」
やすし「はあ? 何言うてんねん」
きよし「おまえの屁やろ」
やすし「違う言うてるやろがいッ!」
マイクがわずかに揺れた。
そのとき、金属の震え音が、場内の張り詰めた空気に小さな亀裂を入れる。
──きよしの中に、確信があった。
これは、引き金だ。
いま、この瞬間を逃せば、次はない。
⸻
きよしは深く息を吸い込み、マイクの前へと一歩、踏み出した。
その仕草すら、芸だった。
ゆっくりと、観客に尻を向ける。
ブッ。
──沈黙。
一瞬、時が止まった。
観客も、やすしも、まるで時間ごと凍りついたようだった。
だが、それはただの「音」ではなかった。
これは、きよしの「覚悟」だった。
笑いを取りに行く覚悟。
相方の信頼を、芸として受け止める覚悟。
そして、芸人としての「帰還」。
やすし「おまえやないかいッ!! もうええわッ!!」
やすしの突っ込みが、角座の空間に火を放った。
観客の肩が震える。
堪えきれず、どっと笑い声が押し寄せる。
それは洪水のように広がり、舞台と客席の境界を曖昧にしていった。
誰かが手を叩き、続けて拍手が波紋のようにひろがっていく。
きよしは微笑んだ。
やすしも、それに気づかぬふりをして、頬を緩めた。
ここが、彼らの帰る場所だった。
そして、いま確かに超えたのだ。
笑いの臨界点(ピーク)を。
⸻
笑いの本質は、言葉の巧みさでも、表情の面白さでもない。
一瞬の沈黙と、一歩踏み出す「勇気」が、観客の心に火を灯す。
ふたりの男は、それを知っていた。
──それが、横川やすし・きよしの芸だった。
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