第2話 屁と密室

都内某所、総合病院の四人部屋。

ここは「音」を消された世界だった。


だが、数日前から、明確な意図を持った爆音が、連日病室を騒がせていた。


「ぶっ!」「ぶぷぅっ」「ぶばばばばっ!」


誰もが耐えがたい羞恥に顔を伏せた。

だが、その回数と、音の構成が異常だった。これは事故ではない。連続放屁事件である。


看護師・斉藤が呟いた。

「これ、ちょっとおかしいですね……」


そして、告発は唐突に始まった。



第一容疑者:蓮見惣一(75)


かつて銀座の呉服屋を仕切った男。礼儀作法にはうるさい。

が、深夜、看護師が巡回した際、彼のベッド付近から強烈な臭気が確認された。


「わたしではない。だが、無実を証明する術がない」

惣一は、半ば諦めたように、数珠を握った。


だが、翌朝の記録用紙に、こうあった。

「3:13AM 音確認。方向は西。惣一のベッドは北」

消去法で、惣一は潔白となる。



第二容疑者:石渡武(51)


寿司職人。沈黙と香りの世界に生きてきた。

ところが、彼のベッド下から、消臭スプレーの空容器が発見される。


「それは……俺が使ってたよ。匂いには敏感なんでね」


だが、容器の蓋には、指紋がない。誰かがわざと捨てた――石渡への偽装工作か?



第三容疑者:村松紗代(34)


小学校教諭。二児の母。品行方正。


彼女は声を震わせて否定した。

「私は違います……でも、疑われたくなくて、昨日から絶食してるんです……」


絶食? 本当に?

だがゴミ箱の中から、小さなプリンの空容器が見つかる。食べていた?

「それは……母が……!」


ここで突如、付き添いの村松の母・房子(62)が動揺し始める。

「ちょっと……もうやめてちょうだい……」


佐山花江(82)、元言語学者は冷静に言った。

「斉藤さん、換気扇の方向は?」

「東に抜けてます」


部屋の配置図と風向きを考慮すると、音の発生源は「東側のベッド」からだった。

該当するのは……佐山自身。



第四容疑者(まさかの):佐山花江(82)


詩人を論じた文人にして、沈黙を愛する老女。

彼女の筆記ノートの隅に、こんな走り書きがあった。


「人間の尊厳とは、どの瞬間に崩れるのか。屁によりて、それを見る。」


実験だった?


だが、佐山はこう呟く。

「私は分析はしたが、実行はしていない」



すべてが袋小路に入ったかに思えた――そのとき。


病室の角に設置された、観察用ミニカメラ(看護研修用)に、ある映像が残っていた。

深夜2:57、映像の端に、病室を掃除していた女性――清掃スタッフの山根チエ(68)が、モップを動かす途中、立ち止まり、軽く腰を落とし、「ぷっ」と……。


彼女は、何食わぬ顔で退出していた。

その後も連日、深夜の清掃タイムに音が確認されていたのだ。


犯人は、内部の誰でもなかった。

音の犯人は、ただ静かに掃除し、去っていく者だったのだ。


だが、それによって崩壊した信頼と疑心暗鬼は、病室の誰にも癒えなかった。


「音とは、耳に届く以前に、心に響くものなのですね」

佐山の一言が、今度こそ沈黙をもたらした。

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