第2話「美咲の困惑と猫の社会性」
チャイムの音と共に美咲が入ってきた。
「おはよ〜、ミーちゃん元気?って——きゃああああ!」
美咲が固まった。当然だ。僕がミーちゃんのお腹を撫でていて、ミーちゃんが完全にメロメロになっているのだから。
彼女の顔は真っ赤になって、手で口を押さえている。その反応を見て、僕は改めて状況の異常さを認識した。
「田中くん!何してるの!?」
「おはよう、美咲。猫のお腹撫でてるだけだけど」
僕は平然と答えるが、心の中では少し動揺していた。美咲は僕の幼馴染で、この一週間ミーちゃんの世話を手伝ってくれている。でも彼女がこんなに驚くということは、やはり僕の行動は普通じゃないということなのだろうか。
ミーちゃんが美咲の声に反応して起き上がった。
「あ、美咲ちゃんおはよう」普通に人語で挨拶。「この人、猫の撫で方がとっても上手なの。私、気持ちよくて幸せ」
「ミーちゃん…あなた、自分が今どんな状況か分かってる?」
美咲の声は震えていた。困惑と心配が入り混じった表情で、ミーちゃんを見つめている。
「うん、猫として可愛がってもらってる」
ミーちゃんの答えは実に単純明快だった。
ここで猫の社会性について。猫は本来単独行動を好む動物だが、家猫は人間との共生で社会性を身につけた。面白いのは、猫が人間に「にゃあ」と鳴くのは実は人間専用のコミュニケーション。猫同士では滅多に鳴かない。つまりミーちゃんは本能的に僕を「群れの仲間」として認識しているんだ。
きっぱりと答えるミーちゃん。僕に向き直ると、
「にゃあ〜」
今度は僕の膝に飛び乗って、膝の上で丸くなった。
「にゃあ♪」
温かい、という意味らしい。この一週間で、ミーちゃんの鳴き声の意味が少しずつ分かるようになってきた。
猫が膝の上で丸くなるのは、体温調節と安心感の両方を求める行動。猫の体温は人間より高く38〜39度。でも表面積に対して体重が軽いため、熱が逃げやすい。だから温かい場所を求めるんだ。そして人間の膝は、温度と安全性を兼ね備えた最高の場所というわけ。
僕は自然とミーちゃんの背中を撫でる。肩甲骨の辺りをマッサージするように揉むと、
「にゃああ〜♪」
すごく気持ちよさそうな声。
「ここ凝ってるな」
「にゃあ〜」
「よし、ほぐしてやるか」
僕がミーちゃんの肩を優しくマッサージしていると、美咲が大きくため息をついた。
「田中くん…」
「なに?」
「あなた、本当にミーちゃんを猫だと思ってるの?」
「当たり前だろ。現に猫じゃないか」
「でも見た目は完全に人間の女の子よ?」
美咲の指摘は正しい。でも僕には、ミーちゃんの人間的な外見よりも、猫としての行動や本能の方が強く印象に残っている。
「美咲ちゃん」ミーちゃんが振り返る。「私、ここでは猫なの。見た目がこうだから混乱するのは分かるけれど」
「でも、あなた普通に話してるじゃない」
「猫だって頭いいのよ。それに」ミーちゃんが僕を見上げる。「この人が私のこと、猫として大切にしてくれるから、私も応えたいの」
その言葉に、僕の胸が少し温かくなった。
「それに」ミーちゃんが続ける。「人間の形をしていても、中身は完全に猫だから。ほら」
そう言って、ミーちゃんは突然立ち上がり、部屋の隅に置いてあったボールに向かって四つん這いで駆け出した。そして猫のように身を低くして、お尻を振りながらボールに飛び掛った。
「にゃああ!」
完全に猫の狩りの動作だった。
「あと、これも」ミーちゃんが僕の方を向いて、目をじっと見つめる。そしてゆっくりと瞬きをした。
「あ」美咲が小さく声を上げる。
「これ、猫のキスって言うやつだろ」僕が答える。
猫がゆっくり瞬きをするのは愛情表現の一つ。「スローブリンク」と呼ばれるこの行動は、相手への信頼と愛情を示している。野生では目を閉じるのは無防備になることを意味するから、それだけ相手を信頼している証拠なんだ。
「にゃあ♪」ミーちゃんが満足そうに鳴く。
美咲は複雑な表情でその光景を見ていた。
「分かったわ」美咲がため息をつく。「確かにミーちゃんは猫ね。でも田中くん」
「なに?」
「あなたも少しは自分の置かれている状況を理解した方がいいと思うの」
「どういう意味?」
美咲は答える代わりに、ミーちゃんを指差した。
「見た目はかわいい女の子で、あなたを慕っていて、あなたの膝の上で幸せそうにしている。客観的に見たら、どう見えると思う?」
その時、僕はようやく理解した。美咲の困惑の理由を。
「でも、僕にとってはただの猫なんだ」
「それは分かってる」美咲が苦笑いする。「だからこそ複雑なのよ」
ミーちゃんが僕の顔を見上げて、また一つゆっくりと瞬きをした。その瞬間、僕の心臓が少しだけ早く鳴った。
これは一体、何を意味するのだろうか。
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