第2章 こぼれる日常

1.伸ばせなかった夜

深夜2時。

美咲の部屋には、隼人の怒鳴り声が響いていた。


「嘘ついてんだろ!?

本当は他の男と……!」


「してない、してないってば……!」


「じゃあなんだよこの時間まで……!」


ドン!

壁が揺れる音。

カップが倒れ、床に散らばる。

美咲は泣きながら、手を差し出した。


「やめて……お願い……。」


「……なんでだよ……。」


隼人は、息を荒くしながら顔を歪めた。


「お前、俺のこと好きだろ……?

なんで、俺を不安にさせんだよ……。」


その瞳に、涙が浮かんでいた。


「好き……。

……でも、苦しいの……。」


「は……?」


「もう……怖いの……隼人……。」


一瞬、沈黙。

そして、顔が豹変した。


「ふざけんなよ……。」


手が、美咲の髪を強く引いた。


「痛いっ……やめてっ……!」



上の階、拓也は部屋の中で凍りついていた。

聞こえる。

女の子の悲鳴。


(まじか……。これ、本当にやばいやつじゃないか……?

でも、俺が行っていいのか……?

通報?……いや、まず声かけたほうが……?

……どうすれば……!)


鼓動がドクドクと耳を打つ。

手が勝手に、スマホとドアノブに交互に伸びる。


(行け……!)


ガチャ、と勢いよくドアを開けた。



階段を駆け下り、5階の前に立つ。

中からは、泣き声、叫び声、物音。


「……!」


意を決して、拳を握りしめ、ドアを叩く。


ドン!ドン!

「すみません!上の者です!

大丈夫ですか!?

中で何が……!」


しばらくして、ガチャ、と内側の音がした。



「なんだ……てめぇ……。」


ドアの隙間から、隼人が顔を出した。

目が赤く、髪は乱れ、息が荒い。


「……上の階の者です。

あの、今、叫び声が聞こえて……。」


「関係ねぇだろ。」


「でも、女性の……。」


「うるせぇっつってんだよ!」


突然、ドアがバーンと閉まった。



拓也は呆然と立ち尽くした。

(……これ……どうすれば……。)


手が、スマホに震えながら伸びる。

110、の数字が画面に浮かぶ。


(通報するしかない……?

でも、もし間違いだったら……。)


そのとき、微かに、ドアの隙間から声が漏れた。


「……助けて……。」


女の声。


間違いなく、彼女だった。



胸が、ギュッと痛んだ。

拓也は迷わず、通話ボタンを押した。



「……はい、110番、事件ですか、事故ですか?」


「……あの……下の階から、女性の悲鳴が……。」


「住所をお願いします。」


震える声で答えながら、拓也は涙ぐみそうになった。


(俺なんかが、できることなんて、ないって思ってた。

でも……俺にも、できることがあったんだ……。)



部屋の中。

隼人はソファに座り、頭を抱えていた。


「……なんでだよ……。

なんでこうなるんだよ……。」


床に、泣き崩れる美咲。

肩を震わせ、息を詰まらせる。


(もう……限界……。

逃げたい……助けて……。)


心が、壊れる音がした。



やがて、ドアの外で警察の呼びかけ声が聞こえた。


「警察です!

中にいらっしゃいますか!?

開けてください!」


美咲は、涙の中で初めて、安堵の息をついた。


(……助かった……。)



上の階に戻った拓也は、部屋の中で一人、拳を握りしめていた。


(……よかった……。

間違ってなかった……。)


心臓が、やっと落ち着いてきた。


「……大丈夫だ、もう……。」


呟いた声は、小さく震えていた。



この夜、三人の関係は、確実に変わり始めていた。


そして、これはただの始まりに過ぎなかった。

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