さよならを紡いで

せせりもどき

第一章 i= -√1

1 まるで林檎のような。


 母屋おもやの裏手、びたトタンの壁。

 木製のベンチとゆがんだパイプ椅子が数脚。

 朽ちかけた灰皿代わりのバケツ。

  

 それが、この高校における“喫煙所”のすべてだった。


 休み時間にはにぎわうそこも、

 授業中ともなれば、人の気配すらない。 

 むしろあったら困るのが建前で、無いのが当然だ。

 

 だから、単位の穴をうずそこねた空白のコマを潰すには、案外ちょうどいい。


 オレンジがかったフィルターに火をける。焦げたカラメルのような匂いが煙と共に辺りに漂う。


 数時間ぶりに肺へと流し込んだその一吸いは、見事に頭を鈍く締めつける。


 ーー味なんて、最初から期待していない。

 

「なんで今更、高校通ってんだか、俺は」


 ひとりごとのような、聞かせるつもりのない声。

 私服にサンダル。手には煙草たばこ


 これが「高校生」というくくりに収まるのだとしたら、それはずいぶんと広義すぎる。


 ――過去をやり直す主人公ではない。


県立冨谷とみや中央通信高校。通称、とみつう


 学校のパンフレットには、教育の機会は万人に等しく与えられるべきだ――そんな崇高な理念が、回りくどい語句で印刷されている。


 要約すれば、「名前さえ書ければ合格する」

 その一点に尽きる。


 偏差値は毎年のように底辺を争い。

 卒業生よりも中退者の方が遥かに多い。


 周辺のコンビニや飲食店は、防衛本能からか灰皿とゴミ箱を撤去済み。地価すら下げるその影響力は、ある意味では誇れるだろう。


 善意を振りかざせば、常時巡回する警察車両があるから安全……という言い分も成り立つ。

 問題は、その発信源が大抵“内部”にあることだ。


 高校の校内に生徒向けの喫煙所がある。

 その事実だけで、ほかにどんな修飾が必要だろう。


 すべてはその一点に集約されている。


 灰が落ちる音すら聞こえそうな無音の中。

 淡く濁った煙を吐き出す。


 別に気分がいいわけでも悪いわけでもない。


 喫煙という行為に、何かの意味があるか。

 そんなものは、別になかった。


 息苦しさと、頭痛のタネ、あとは呼吸。

 その責任の一端くらい、引き受けてくれればいい。


「あー……ダルいなぁ」


 口に出したところで何も変わらない。

 課題も、洗濯物も、終わってない。

 将来だけは、終わってる。


 そんな皮肉を思いながら、煙を吐く。

 

 課題と同列に語れる未来。

 それにどれほどの重みがあるか、無いのか。


 自分の人生に、他人事の感想しか浮かばない。


 その静寂に、唐突な声が割り込んだ。


「ねぇ、一本もらってもいいかな?」


「は……うェっ!!」

 

 せた。肺の奥に残っていた煙が暴れた。

 声をかけられるまで、ここに他人が存在するという可能性を一切考慮していなかった。


 油断というより、想定外。

 咄嗟とっさの反応すら滑って、間抜けなせきだけが空に響いた。、


「もしかしてお取込み中だった感じ?……瞑想めいそうとか」


「あー、錆びたトタンを眺めるくらいしかやることがない位にはいとましてたよ」


 会話にすらなっていないのに、なぜか成立している。

 知らない顔、女。制服。口調は軽く、表情には悪びれもない。気を抜いた隙に、他人は入り込んでくる。

 

 ――あまりにも、異物感しかなかった。

 

 紺のブレザーにリボンタイ。

 清潔そうな黒髪、整った制服の着こなし。

 

 まるで、「高校生とはこういうものです」と万人が想像するであろうお手本のような姿。


 ――そこに煙草をねだる台詞せりふが乗る違和感。


「なら、一本ちょうだい」

「いや流石さすがに……駄目じゃない?」


 会話がすでに文法を拒絶している。

 要求の中に助詞はあるが、意味のつながりが見えてこない。

 

 “駄目”と返すと、彼女は不満げに小首をかしげた。

 その動作すらも計算済みに見えたのは、俺がひねくれているせいだろうか。


 仮にこれがポッキーだったなら話は変わる。

 プリッツでもいいし、オロナミンCでも許された。

 

 だが、今手元にあるのは煙草だ。

 

 制服姿の女子に「一本ちょうだい」と言われて、はいどうぞと渡すだけの勇気も、倫理観も俺にはない。


「くれないなら、副流煙で我慢するからさー」

「今別に吸いたい気分じゃないし……もう、教室向かわないとだから」


 本音では暇を潰して、移動するつもりだった。

 だが、横から突っ込まれては気ががれる。


 空いた教室で寝たふりでもしていた方がはるかに穏やかだ。


 そう思ってベンチを離れようとした。

 ――その袖口を、彼女がつかんだ。

 

 続けざまに、隣へ腰を下ろす。


その動きはあまりに自然で、俺の存在を気にも留めていないように見えた。

 

「えっと……何?」


「いいじゃん、暇だからちょっと話そうよ」


 “いいじゃん”の主語が抜けていた。いいのは虫なのか、都合なのか。どちらにしたって、ロクでもない。

 

 そんなことを考えても無意味だと分かっていても、気になってしまうのは性分だ。


 ただ、袖を振り払う理由もなかった。

 目の前の人間に強く出るほどの主張は無い。


 彼女の視線に根負けして、再び火を点ける。

 煙草の先端がじり、と音を立てる。


 ーー味は、期待してない。


 口の中が苦味で満たされるのが、都合がいい。


「君さー……ずっとふかしてるし仏頂面で美味おいしくなさそうに吸うね?」


「……別に、チェーンして気分悪いだけだよ」


 身体が重い理由は思い当たりすぎて逆に曖昧だ。

 

 低気圧、酸欠、タール、睡眠不足、無為な会話。

 ……全部少しずつ原因で、どれか1つに罪をなすりつけるには無理がある、思い当たる節しかない。


「そもそも煙草なんて、美味いと思って吸ってない」


 言ったあとで、正直すぎる気がした。

 だから、どうというわけでもない。

 独り言の延長線にあるだけの、単なるつぶやきだ。


「じゃ、なんで君は煙草を吸うの?」


「……副流煙がどうのって、どっかの誰かさんが引き留めたせいだけど?」


 煙を払うように、ふざけて返す。

 彼女はに落ちないという顔をして、けれど引き下がらなかった。


「それはそうだけど……そうじゃなくて」


 何が“そう”で、“じゃない”のか。

 意義だの、意図を聞いてるのは理解してる。

 それを答える義理がないだけだった。 


「ならさ……君って毒リンゴ食べたことある?」


「……なんて?」


「毒リンゴ。白雪姫のやつ」

 

 会話が突然、絵本の中へと滑り込む。

 煙草の話をしていたつもりが、なぜか童話。


 常識的な道を踏み外すのが彼女の趣味なのか、

それとも無秩序なだけなのか、判別がつかない。


「答えて?」


「……実物を見た事も、食べた事もない」


「だよね、わたしもない」


 唐突に始まった問答。

 答えたのは、単に好奇心だった。

 彼女は満足したように、続きを口にする。


「なら、毒リンゴって美味しいかな?」


「毒っていうんだから不味まずい……と思うけど」


 思い浮かべるのは、絵本に描かれていた挿絵だ。

 紫や緑の、毒々しい果実。 

 常識的に考えれば、不味そうだと思う


 

 ――しかし、彼女の“正解”は違った。


「ぶぶー正解はすごく美味しいでしたー」


「正解って……その根拠は?」


 真顔でくのも野暮だったが、彼女は意気揚々と応じた。


「絶対死ぬってくらい食べてもらわなきゃ困るから」


「……毒を盛る側の都合なんだ、それ」


 ――理屈は妙に通っていた。

 目的が“食べさせること”であるなら、美味しくなければ成立しない。

 

 美味しいからこそ、毒であることに気づかれない。


「美味しくも甘くもない毒をむ理由って何?」

 

 そこまで聞かれては、はぐらかせないとため息を吐き出しながら……ふと、それを思いついた。

 

「それなら……当ててみてよ」

 

 ポケットから煙草のパッケージを取り出す。

 開けたばかりの紙箱を彼女に見せつけるように掲げるのは、悪趣味な挑発だ。


「理由を当てられたら、残り全部あげる」


 たかだか、数百円のけ。

 それを“全部”と言い切る軽さに、自分でもあきれる。


「わかりっこないって顔してるね?」


「別に……当てられたらすごいってだけだよ」


「いいよ、でも嘘つくのはなし」


 ――裁量一つで正解がすり替わる。

 この遊びは、真剣勝負というには程遠い。

 

 悪い先輩に誘われたとか、好きなバンドが吸ってたとか、ヤンキー文化に染まったとか。

 

 別に何でも良かった。

 薄っぺらで一般的な、そんな理由なら何でも。

 

 ――適当に言われた理由を肯定すれば良い。

 そうやって、有耶無耶うやむやにすれば何ひとつ知られない。


 なのに、彼女は見透かすように。

 まるで品定めのようにじっとこちらを見ていた。

 

 顔のつくりが整っている、という事実に気づいたのは、そのときになってからだ。


 視線から逃げるように目をらす。

 それが合図になったのか、彼女の頭が少し泳ぐ。

 正解のカードを選ぶような迷いの中で。

 静かに、言葉が落ちた。


「煙草を吸うからここに居るんじゃなくて、此処ここに居たいから煙草を吸ってる……かな?」


 言葉の選び方には迷いがなかった。

 淡々とした言い切りだった。

 仮説というより、答えを告げるような声音。


「どう、合ってる?」


 問うような、答え合わせのような調子。

 もう一度こちらを正面から見据えてくる。


 視線が真正面からぶつかってくることに困った。

 肯定しても否定しても、何を選んでも自分が何かを明かしたような気になる。それが面倒だった。


 代わりに、煙草を一本抜いて火を点ける。

 吸いたくはなかった。だが、今この瞬間に、彼女にそう言われた以上、火を点ける以外にやれることがなかった。


 火を点けた煙草は、特別でもなんでもない。

 でも、自分が言い負かされたような気がした。

 

 別に正解ではない。ただ、否定できない。

 彼女の言葉によって形を与えられた様な感覚。

 

 それを違うと断じるのは嘘に思えた。 

 無言のまま、パッケージを彼女に押しつける。

 

「へぇー……意外と素直なんだ?」


「嘘つくのは、無しなんでしょ」


 彼女が言っていたルールに従っただけ。

 “素直”と呼ぶのは、少し意味が違う気がする。

 けれど、訂正するのも億劫おっくうだった。


 毒リンゴなんて話題に興味を惹かれた時点で、この場における主導権は完全に相手に移っていた。

 

 会話の流れ、空気の支配、こっちはただの傍観者。


 唯一の抵抗は、語らずに済ませること。

 それだけだった。


 ――居場所を主張するための煙草。

 制服の代わりに持ち歩いている名札。

 自分がここにいることの言い訳。


 免罪符であり、諦念の象徴でもあった。


「ほんとに貰っていいの?」


「それやるから、しばらく黙ってくれって買収」


 誰ともかかわらずに済む場所が、占拠されていく音がした。

 

 煙草の匂いで人を遠ざけようとしたのに、その煙にかれて近づいてきた相手が、よりによって制服姿の女子校生だという皮肉に苦笑いする。


 彼女はパッケージを手に持ったまま、しばらく黙って俺を見ていた。吸う気配はない。


「……なに、ライターも寄越せって?」


「いや、流石に悪いからそっちでいいやって話」


 指差されたのは、俺がくわえたままの煙草だった。


「……吸いかけなんだけど」


「なにか問題ある?」


「何かもなにも、問題しかない」


 反射的に返したその言葉は、意外と真実だった。

 問題しかないのに、そのまま逸脱してくるのが彼女という人間だと、そろそろ勘付くべきだった。


 躊躇ためらいもなく、彼女は煙草を奪って、咥える。

 フィルターには俺の唇の温度が残っていたはずだが、彼女の動きにそれを気にした様子はなかった。


「ねぇ……この煙草は甘いと思う?」


「は……? 何いって」


 意味の通じない問いかけ。

 いや、通じることを前提にしていない響きだった。

 吐息まじりの声が耳元に触れたことに、思わず体を引いてしまう。


 彼女は微笑ほほえみながら続ける。


「賭けをしよう? 君が勝ったら、なんでも1つ言うこと聞いてあげる。黙っててとか、関わらないでとか……抱かせてとか、別に何でもいいよ」


「……訳わかんないって、賭けにならないだろソレ」


 "この煙草"が甘いかどうか。

 それを、当てるだけの賭け。


 味覚なんて主観の塊だし、正解なんて存在しない。

 それでも、彼女は“自分の答え”が勝ちであるかのようにしゃべっていた。


「ちなみに俺が負けたら……保証人の欄にハンコとか押させられる感じ?」


「押してくれるなら良いけど……ここで話し相手になって、その時に煙草をくれたらいいや」


 ――釣り合いが取れていない。

 対価にしては、提示された条件はあまりに軽い。

 彼女にとってこの賭けは、勝敗以上に、何かを確かめる手段だったのかもしれない。


 ――甘い訳がないと知る。

 だから、安易に口にする。

 

「はぁ……その煙草は甘くない」


「私は甘いと思うから……賭け成立だね?」


 彼女は、まるで誰かとの口づけをなぞるような仕草で、煙草を咥える。

 時間をかけて煙を肺に落とし、まるで吐き出すのを惜しむように細く長く、白い線を空へ流していく。


 ――その光景に、なぜか目が離せなかった。

 煙の中にいる彼女は、この場の誰よりも輪郭がはっきりしていた。


「ん……どう、美味しそうでしょ?」


「まぁ、それは確かに」


 言わされているような気がしながら、肯定していた。

 同じ煙草を吸っているはずなのに、彼女のそれは何か別のもののように見えた。

 

 「……じゃあ、これ返すね」


「いや……え?」


 差し出されたのは、彼女が咥えていた煙草。


 唐突すぎて意味がつかめない。咄嗟に受け取ることも、拒むこともできず、言葉だけが宙に浮く。


「“この“煙草が甘いか確かめられないよね?」


「いや、さっき吸ってたから……」


「本当にそうかな。今は甘いかもしれないよ?」


 声に込められた挑発は、もはや装ってすらいない。

 甘いかどうかはもう問題ではなかった。

 問題なのは、“それを吸えるか”という行為だった。

 

 この賭けの本質は、煙草の味じゃない。

 “彼女が口をつけたものを俺が受け入れられるか。


 余りに自然で、軽やかだった。

 今更すり替えられていたことに、ようやく気づく。

 

 試されていたのは味覚ではなく、思慮の浅さだった。そう思った瞬間に、負けは確定していた。


「……それじゃ、賭けは私の勝ちだね」


「あーうん……俺の負けでいい」


 勝ち負けを認めることで、会話の幕引きを図った。

 もうこれ以上引き延ばしても意味はないし、自分の態度のどこかに“負けを恐れていないふり”を繕っていたことにも、うっすらと気づいていた。


「甘いか試してみれば良かったのにね」


 言いながら、彼女はフィルターに舌をわせる。

 何気ない動作、それは明確な“誘導”だった。

 誘惑とも嘲笑ともつかない声音が、こちらの判断を鈍らせてくる。


 味覚の話をしていたはずなのに、今や話題は行為そのものへと変質している。

 煙草の味がどうこうではなく、“触れられるか”“踏み込めるか”のほうへ変わる。

 

 対応できるほど器用でも図太くもなかった。


「……俺が吸ったらどうするつもりだった?」


「変な事されるかもとか、普通思うでしょ」


 挑発を受け止めきれずに、話を濁した。

 だが、彼女はまったく動じない。

 むしろ、動じないことを当然としてそこにいる。


「んー、まぁその時はその時かなーって」


「間接キスくらいで恥ずかしがる君のお願い事なんて、たかが知れてるだろうし……別に良いかな」


 笑う彼女の顔には、勝者の余裕がにじむ。

 この賭けにリスクがなかった。

 つまり、勝敗すらも賭ける前から決まっていた。


 彼女は吸いかけを火種に新しい煙草に火を点ける。


 こちらが賭けたものは自己防衛と自尊心。

 彼女が賭けたのは、何もなかった。


 それでも、ゲームは成立したことになっている。


 吸いかけの煙草も、パッケージも、火種すら。

 必要な全部が、彼女の手中に収まった。


 俺の手元には、役割を失ったライターだけ。

 

 制服姿の女子高生と、私服の男。

 ひとつのベンチに並んで座る。


 はたから見れば、関係性も想像しようがない組み合わせ。


 青春を謳歌おうかしているようにも見えず、かといって互いに無関心を貫いているようでもない。


 曖昧な距離感が、この場の温度を決めていた。

 暑いでもない、涼しいでもない、曖昧な空気。

 

 散りかけの桜が、何枚か風に揺れて落ちてきた。

 花びらの形をしたそれは、春の情緒を思わせるには少しだけ時期が遅い。


 未練がましく、消えるにはまだ色が残っている。


 “青春“と呼ぶには薄暗い。

 “学生生活“と称するには怠惰すぎる。

 

 それでも、誰にも見られていなければ、この季節の名前をつけることだってできたのかもしれない。


 この出会いが、彼女との関係の始まりだった。

 ――そう書けば、ドラマのような体裁になる。

 

 

――――――――――――――――――――――――



 改めてこの書き出しを振り返ってみると、自分がどれほど浮かれていたかよく分かる。

 俺は出会いを物語の“起点”にしようとしていた。


 現実の薄さに目をつぶり、物語めいたレトリックでごまかすことで、美化しようとしていた。


 学園ラブコメの始まり。

 ――そんな妄想に乗っかれるほど、脳天気な部分が、当時の俺には残っていたらしいのか。

 

 誰かに好かれる可能性を、ほんの少し信じていた。


 そう見えるように、書いたのか。

 本当に期待していたのか、どっちだったろう。


 からかい、ナンパ、暇つぶし。

 もしくは単なる気まぐれ。


 それを問えば、彼女はきっと。

 どれもを選ばずに、笑って濁すだろう。


 彼女はいつだって自由だった。

 掴みどころがなくて、気ままで、そしてひどく、独善的だった。


 

 ……だから、もしも過去に戻れるなら。

 人生のどこか一点だけを修正できるという、身も蓋もないほど都合のいい話が現実になったとしたら。


 きっと俺は、この日を選ぶ。


 出会いでもなければ、転機でもない。

 それでも、どうにかできたはずの瞬間。

 どこかで方向を変えられた、その分岐点。


 たとえば、彼女の手を振り払っていれば。

 あの言葉を聞き流していたら。

 毒の甘さを知らずにいられたのなら。


 あの日、羞恥心と見栄を捨てられていたら。

 何を願えばいいのか、ちゃんとわかっていたら。


 こんな苦しさに延々と付き合うこともなかった。

 もっと楽になれたのかもしれない。


 そういう“かもしれない”を、

 何度も考えては潰してきた。


 後悔というよりは、反復だ。

 ずっと、痛みを繰り返しつづける事で、

 その名前を麻痺まひに変えていく作業。


 でも結局、ただの負け惜しみだと知っている。


 そういう未来は訪れない。

 都合よく書き換えられる物語じゃない。

 

 どう頑張っても、無駄だったと思う。

 俺の隣に座ってしまう彼女を咎める事は出来ない。


 あの時の俺はそれを拒めない。


 ……それでも、と思ってしまう。

 もしも、なんて考えてしまう。


 この感情は本来、もう手放すべき類のものだ。

 

 それでも、願ってしまう。

 できるなら、やり直したい。

 せめて、あの日の自分に伝えたい。


 彼女に惹かれるな。

 深く関わるな。

 安易に触れるな。

 

 ――甘いものは、だいたい毒だと知るべきだ。

 

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