第十六章:氷上の市場(01)
午後になって、陽が湯を差し替えに戻ってきた頃、想の前には十人近い列ができていた。
鍋の中身は三分の一ほどに減り、出発時に用意した追加分もすでに火にかけている。
「うわ……想、すごいじゃない」
「正直、自分でも驚いてます。朝は『一杯も出なかったらどうしよう』って思ってましたから」
陽が鍋の底を見て、にこりと微笑む。
「湯の温度、ちょうどいい。ちゃんと“冷えきる前に温まる”タイミングで提供できてるね」
「それ、陽さんのアドバイスのおかげです。『一口目で胃が反応するくらいがベスト』って」
ふたりのやりとりに、列に並んでいた年配の女性が声をかけた。
「このお茶、なんとも言えん甘さだね。砂糖とは違って……体にすっと入ってくる。これ、どこで手に入るんだい?」
「セルディナの湖畔にある〈湖光亭〉という宿で提供しています。日帰りでもご利用いただけますので、ぜひいらしてください」
「ほう……“湖光亭”、ね」
その言葉をメモしていたのは、別の男性だった。
歳は三十代半ば、旅装を着崩した姿に、鋭い目と整った身なり。明らかに只者ではなかった。
「すみません、少しお話よろしいですか?」
「ええ、どうぞ」
「私は王都の東商組合に所属しています。今回の市には視察で来たのですが……この甘酒、正直なところ、非常に“市場性”を感じます」
「市場性……ですか?」
「この味は異国の風味がありながらも、飲みやすい。特に冬場の市、王都の宿、露店――需要は広がる余地があります。小規模で構いません、提供元としての契約を結びませんか?」
突然の申し出に、想は一瞬、言葉を失った。
「契約……って、流通に乗せるということですか?」
「はい。ただし、まだ始めたばかりとのことですから、初回は小ロットでも構いません。今後の安定供給が可能であれば、継続的に取り扱いたい」
「すみません、すぐには返事できません。仲間たちと相談して、必ずご連絡します」
「もちろん。こちらが名刺代わりの札です」
商人は木札を一枚差し出すと、深々と頭を下げて去っていった。
陽がそのやりとりを見守りながら、ぽつりと言った。
「……想、やっぱり、すごいね」
「すごいのは“この場所”ですよ。甘酒を作ったのも、レシピを考えたのも、“誰かの笑顔が見たい”って気持ちが動機だったんです」
「それでも、それを形にしたのは、想でしょ?」
陽は穏やかに笑った。
氷の上を吹き抜ける風は冷たかったが、胸の奥には温かな火が灯っていた。
この村の湖の上で交わされた、小さな契約と大きな期待。
それは〈湖光亭〉にとって、“外とつながる”はじめの一歩だった。
(→End)
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