第八章:湖光亭、始動(00)

 八月一日。

 朝の湖は、見違えるほどの透明さをたたえていた。

 波打つ水面が空の青を映し、白い雲はまるで水中に沈んでいるように見える。

 その湖のほとりに建つ石造りの家――〈湖光亭〉の扉が、ついに正式に開かれた。

「よし、看板出すぞーっ!」

 そう声を上げたのは康生だった。

 日焼けした腕で支えた木製の看板には、「癒しと語らいの宿 湖光亭」と手彫りの文字が並ぶ。

 その文字は、敦子の筆によるものだった。

「細い線が滲まないように、二重に下書きしておいたから、雨でもそう簡単には消えないよ」

 彼女はそう言って、看板の脚を固定する杭を打ち込んでいる。

 失敗を恐れてすぐに萎縮してしまう敦子が、こうして堂々と作業している姿に、想は心からの拍手を送りたくなった。

「これで、“準備期間”は終了だね」

 陽がそう言って、想の横に並んだ。

 その手には、白い布に包まれた小さな包みがある。中には、二人で作った蜂蜜パンと、前日に摘んだ薬草の花弁をあしらった茶葉のサンプルが入っていた。

「来てくれる人に、“まず香りを”って思って」

「うん。うちの宿は、“時間がゆっくり流れる場所”って感じがしますから」

 想のその言葉に、陽はくすりと笑った。

「ねえ、“うちの宿”って、もう自然に言えるようになったんだね」

「あ……ほんとだ。なんか、照れますね」

 朝の空気に、ふたりの笑い声が小さく溶けていった。

 客を迎える玄関には、友里が用意した予約帳と名簿が並べられていた。

 初日は三組――旅の途中で立ち寄る薬師見習いの兄妹、湖を見に来た詩人、そして村の若者たちが試しに泊まってみるとのことで、簡易宿泊の準備が整っていた。

「日帰り客にはハーブティーと菓子のセット、宿泊の人には朝食付きで。あと、湖の夕景が見える座敷も自由に使ってもらえるようにね」

 陽が段取りを確認すると、宏美が資料棚の整頓を終えて立ち上がった。

「薬草の説明札、全部書き直しておいたわ。見学ついでに勉強していく人も多いから、あれ、地味だけど効果あるのよ」

「宏美さん、ありがとうございます。字、すごく読みやすかったです」

「ふふ、そう言ってもらえると、やる気出るわね」

 そして昼前、第一組の客が到着した。

 薬師見習いの兄妹は、素朴な服装に大きな背負い袋を背負っていた。

 兄は二十代前半、妹は十代半ば。ともにまっすぐな目で湖光亭の建物を見上げた。

「ようこそ、湖光亭へ」

 想が玄関でそう声をかけた瞬間、妹が目を輝かせて言った。

「うわぁ……本当に、木と石のにおいがする。お兄ちゃん、ここ泊まれるの? ホントに?」

「一泊でお願いできればと思ってるんですが……」

「はい、ご案内します。夕食は十八時、朝食は七時半。浴室は裏手にございます。ご希望があれば薬草湯も追加可能です」

 陽の流れるような説明に、兄妹は感心したようにうなずき、荷を下ろした。

 ふと、想は窓の外を見た。

 市で見かけた詩人らしき男が、湖畔で詩集らしきノートを開いていた。

 その姿を見て、想は思った。

“この場所は、何かを始めるために来る人のための場所なんだ”

 宿というのは、ただ寝泊まりする場所ではない。

 心を置く場所、そして、また旅立つ勇気を与える場所。

 かつて自分が、陽に救われたように――。

(→01へつづく)

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