案件007:税務調査
王都ファルケンベルク、王宮監査局の重厚な石造りの建物に、朝の陽光が差し込んでいた。
局長室の扉を勢いよく押し開けて駆け込んできたのは、監査局の若手職員マルクス・シュナイダーだった。両手には大量の書類を抱え、その顔には信じがたいものを見たという困惑の色が浮かんでいる。
「し、失礼いたします! 局長、緊急の報告があります!」
執務机で書類に目を通していたヴェルナー・フォン・シュトルムは、顔を上げることなく答えた。
「慌てるな、マルクス。報告は正確に、簡潔に。無駄な時間は使いたくない」
三十二歳のヴェルナーは、『雷神の騎士』の異名で知られる王国最強の騎士だった。鋼のような意志を感じさせる鋭い眼光、戦場で鍛え抜かれた引き締まった体躯。しかし、現在は自らの意志で前線を離れ、監査局長官として王国の財政と行政を監督する立場にある。
「は、はい! 辺境地域の税収に関する異常な数値が……」
マルクスは震える手で報告書を差し出した。
「ミストラル村、デール村、グリーンフィールド村、カモミール村……これらの村々の今四半期の税収が、前年同期比で軒並み三倍から五倍に跳ね上がっています!」
ヴェルナーの手が、ペンを握ったまま止まった。
「三倍から五倍……面白いな」
彼の声に、興味深そうな響きが込められた。
「しかし、税収の増加は氷山の一角に過ぎません」
マルクスは別の資料を取り出した。
「これらの村では、水道設備の完全整備、農業生産性の飛躍的向上、識字率の劇的改善が同時に発生しています。特に注目すべきは、子供たちの教育水準が王都の平均を上回るレベルまで向上していることです」
「辺境の農村で、王都を上回る教育水準だと? 興味深い」
ヴェルナーは立ち上がり、報告書を受け取った。その動作には、一切の迷いがない。
「さらに、道路網の整備、橋梁の建設、通信手段の確立……まるで王都と同等のインフラが、数ヶ月で構築されているのです」
「数ヶ月でインフラ整備を完了させた、か。王都でも不可能な速度だな」
ヴェルナーの声には、驚愕よりもむしろ感嘆の色が強く現れていた。
「それだけではありません」
マルクスの声に、更なる驚愕が込められた。
「人の流れも激変しています。これらの村への移住者が急増し、逆に王都への人口流入が減少しています。商人たちも、辺境との取引を優先するようになっており、王都の商業バランスにも影響が……」
「つまり、王都の優位性が脅かされている、ということか」
ヴェルナーは冷静に状況を分析した。
「農具の品質向上、新たな農法の導入、医療技術の普及……そして、すべての村に共通する要因が、『賢者』と呼ばれる人物の存在」
彼は報告書をめくりながら続けた。
「ジュリアス・グランツ。興味深い名前だな」
「はい。この男が関与した村では、例外なく劇的な変化が起こっています」
ヴェルナーは窓際に歩み寄り、王都の街並みを見渡した。
「従来の常識を根底から覆す変化を、短期間で実現した男……」
彼の声には、明らかな興味が込められていた。
「局長、さらに気になる報告があります」
マルクスが、別の書類を差し出した。
「これらの村で目撃された、『光る球体』の報告です。空中に浮遊し、まるで意思を持つかのように動き回る謎の物体。村人たちは『魔法の玉』と呼んでいるようですが……」
「魔法、か。それとも、未知の技術か」
ヴェルナーは興味深そうに呟いた。
「また、このジュリアス・グランツという男についてですが……王都の記録には、彼に関する過去の情報が一切存在しません。まるで、数ヶ月前に突然現れたかのように……」
「身元不明で、常識を超えた力を持つ男、か」
ヴェルナーは報告書を机に置くと、しばらく考え込んだ。
「とりあえず、この件は継続監視とする。追加情報があれば即座に報告しろ」
「承知いたしました。調査チームの派遣は……?」
「それについては、後日判断する」
ヴェルナーの答えは慎重だった。まだ決断を下すには、情報が不足している。
* * *
その日の昼下がり、監査局にヴェルナーが戻ると、受付の職員が慌てた様子で駆け寄ってきた。
「局長! 神殿からお客様が……!」
応接室で彼を待っていたのは、白い僧衣に身を包んだ中年の男性だった。聖ユスティティア神殿の司教、フランシス・アルベルティーニ。穏やかな笑みを浮かべているが、その奥に鋭い知性と計算高さが宿っているのを、ヴェルナーは一瞬で見抜いた。
「シュトルム局長、お忙しい中お時間をいただき、ありがとうございます」
フランシスの声は、訓練された聖職者らしく美しく響いた。
「司教猊下。神殿からの訪問とは珍しい。用件は何だ?」
ヴェルナーは単刀直入に問いかけた。社交辞令を省いた、効率重視の対応だった。
「実は、辺境地域で起こっている変化について、お話をお聞かせいただきたく」
「ジュリアス・グランツのことか」
ヴェルナーは即座に核心を突いた。
「さすがは局長。お察しが早い」
フランシスは感心したような表情を見せたが、ヴェルナーはその演技を見透かしていた。
「神殿も彼の存在を把握しているということか。情報収集能力は相変わらず優秀だな」
「我々は常に民の安全を第一に考えております」
フランシスは立ち上がり、窓の外を眺めながら続けた。
「実のところ、我々神殿は古来より、この世界の『奇跡』と『技術』の境界を見極める役割を担ってまいりました」
「つまり、古代技術の独占管理者としての立場を維持したい、ということだな」
ヴェルナーは遠慮なく本質を指摘した。
「そのような直接的な表現をされると……」
「事実を述べただけだ。神殿が古代の知識を独占し、それを『聖遺物』として管理していることは周知の事実だ」
ヴェルナーの言葉に、フランシスは一瞬表情を硬くした。
「我々が心配しておりますのは、ジュリアス・グランツの技術が……適切に管理されているかということです」
「適切な管理、か。興味深い表現だな」
ヴェルナーの目が鋭くなった。
「我々神殿は、長い歴史の中で、古の時代から伝わる知識の断片を保管してまいりました。失われた技術の記録、古代の叡智の欠片……それらを『聖遺物』として大切に守り、必要に応じて民の役に立てております」
フランシスの説明は、一見すると神殿の善行を語っているように聞こえたが、ヴェルナーにはその背後にある政治的な意図が透けて見えた。
「つまり、新たな技術の登場は、神殿の既得権益を脅かす可能性がある、ということか」
「そのようなことは……」
「もし彼の技術が本物であれば、民衆は神殿の『奇跡』よりも、より実用的な技術を選ぶだろうな」
ヴェルナーの指摘は鋭く、フランシスの核心を突いていた。
「しかし、もし彼の技術が危険なものであった場合……」
「危険かどうかは、直接確認してみなければ分からないな」
「もし局長が何らかの調査を検討されるのであれば、我々にもお知らせいただければ……」
「それについては、適切に判断する」
ヴェルナーは明確な約束を避けた。
「また、もし何か普通ではない現象を目撃された場合には、ぜひ我々にもお教えください。古代の記録と照合することで、その現象の正体が判明するかもしれません」
フランシスの言葉には、古代技術への深い知識を匂わせる響きがあった。
「古代の記録、か。神殿が管理する情報の価値を改めて実感するな」
「我々は常に、王国の安定のために尽力しております」
「承知した。何か動きがあれば、適切に対処する」
ヴェルナーの答えは曖昧だったが、フランシスはそれ以上追求しなかった。
「それでは、良い結果をお待ちしております。神の御加護がありますよう」
司教が去った後、ヴェルナーは一人、応接室で考えを整理した。
(神殿が動いたということは、ジュリアス・グランツの技術が相当なレベルだということだ。既得権益を脅かすほどの)
彼は冷静に状況を分析した。
(古代技術の独占に危機感を抱くほどの技術力……これは想像以上に重大な案件かもしれない)
ヴェルナーの中で、この問題への認識が大きく変わった。単なる興味深い現象ではなく、王国の将来に影響を与えかねない重大事案として捉える必要がある。
* * *
その日の夕刻、ヴェルナーは王都郊外にある実家の屋敷を訪れていた。
シュトルム伯爵家は、代々王国の軍事を支えてきた武門の名家である。広大な屋敷の庭園では、夕暮れの中で薔薇の花が静かに咲き誇っていた。
書斎で彼を迎えたのは、父であるハインリヒ・フォン・シュトルム伯爵だった。五十八歳の伯爵の背筋は未だに真っ直ぐで、かつて『鉄壁の将軍』と呼ばれた威厳を保っている。
「ヴェルナー、今日は何の用だ? 珍しく深刻な顔をしているが」
「重要な案件について報告がある」
ヴェルナーは父に対しても、対等な口調で答えた。
「相変わらず、素っ気ない返事だな」
ハインリヒは苦笑いを浮かべながら、葡萄酒の入ったグラスを二つ用意した。
ヴェルナーは、辺境地域で起こっている変化について、父に詳しく報告した。感情を交えず、事実のみを淡々と述べる姿勢は、まさに有能な指揮官のそれだった。
「……なるほど。確かに異常な状況だな」
ハインリヒは息子の報告を聞き終えると、考え込んだ。
「さらに、今日神殿の司教が訪問してきた」
「神殿が? それは穏やかではないな」
「古代技術の管理に危機感を抱いている様子だった。つまり、ジュリアス・グランツの技術は、神殿が脅威と感じるレベルだということだ」
ヴェルナーの分析は的確だった。
「それで、お前はどうするつもりだ?」
「現地調査を実施する。この男の正体を直接確認する必要がある」
ヴェルナーの答えは明快だった。
「現地調査か。マルクスあたりに任せればいいだろう。優秀な部下だ、適切な報告をしてくれるはずだ」
ハインリヒは常識的な提案をした。
「いや、この案件は私が直接対処する」
「お前が? 監査局長官が辺境の村に出向くなど、前例がないぞ」
父の驚きは当然だった。大臣級の高官が、辺境の調査に自ら赴くなど、通常では考えられない。
「前例など関係ない。この男の技術が本物であれば、王国の将来が変わる可能性がある。そのような重要な判断を、部下に委ねるわけにはいかない」
「だが、お前が王都を離れることのリスクも考えろ。政敵がこの機会を利用するかもしれない」
「政治的な駆け引きなど、二の次だ。王国全体の利益を考えれば、この調査の方が重要だ」
ヴェルナーの決意は固かった。
「頑固な奴だ。昔から、一度決めたら誰の言うことも聞かない」
ハインリヒは諦めたように頭を振った。
「それに、お前は騎士の家系だ。本来なら前線で戦っているべきなのに、監査局などという文官の仕事を……」
「それは父上の価値観だ。私は私の道を選ぶ」
ヴェルナーは父の言葉を遮った。
「王国に貢献する方法は、剣を振るうことだけではない。より大きな視点で国を支えることも重要だ」
「まあ、お前の判断力と実行力は認める。だが、本当に大丈夫か? 辺境での調査など、危険もあるだろう」
「危険? 面白そうじゃないか」
ヴェルナーの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「お前らしい反応だ」
ハインリヒは苦笑いを浮かべた。
「ただし、一つだけ忠告しておく。その男が本当に優秀であれば、お前にとって良い刺激になるかもしれない」
「それが期待していることだ」
ヴェルナーは自信に満ちた表情で答えた。
「分かった。お前の決断なら、私は何も言わない。ただし、シュトルム家の名に恥じぬよう行動しろ」
「当然だ」
ヴェルナーは立ち上がった。
「明日の朝、出発する。マルクスと数名の護衛を連れていく」
「気をつけていけ」
父の言葉を背に受けながら、ヴェルナーは屋敷を後にした。
彼の中で、ジュリアス・グランツという男への関心は、もはや単なる好奇心を超えていた。王国の未来を左右するかもしれない重要人物として、そして自分自身にとって意味のある出会いとなるかもしれない相手として。
翌朝、王都の朝靄の中を、一行の馬車が静かに出発していった。
王国最強の騎士は、運命的な出会いを求めて、辺境の地へ向かった。
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