第21話

俺の言葉に、イザベラの翠色の瞳が、驚きと喜びに大きく見開かれた。

その瞳は、みるみるうちに潤んでいき、やがて、大粒の涙となってその白い頬を伝い落ちる。


「レオン……!」


彼女は、感極まったように俺の名を呼び、そして、ぎゅっと、壊れんばかりの力で俺に抱きついてきた。

俺は、そんな彼女の華奢な体を、優しく、そして力強く抱きしめ返す。

彼女の震えが、喜びが、そして愛おしさが、俺の全身に伝わってくるようだった。


「はい……! はい、レオン……! あなたの、お嫁さんに……してください……!」


途切れ途切れの、しかし、心の底からの言葉。

その一言が、俺にとって、この世界で何よりも価値のある宝物となった。

俺たちの未来が、今、この丘の上で、夕日を証人として、確かに結ばれたのだ。


俺たちは、しばらくの間、言葉もなくただ抱きしめ合っていた。

眼下に広がる王都の街並みが、祝福するようにきらきらと輝いている。

やがて、どちらからともなく唇を重ねた。それは、これまでのどんなキスよりも、甘く、そして深い、永遠を誓うキスだった。


これからの道は、決して平坦ではないのかもしれない。

公爵閣下が言っていたように、身分の差という大きな壁が、俺たちの前に立ちはだかるだろう。多くの困難や、嫉妬、悪意が、俺たちを試すのかもしれない。


だが、それでもいい。

俺の隣には、この世界で最も愛しい女性がいる。

彼女の笑顔を守るためなら、俺はどんな困難にだって立ち向かえる。

いや、むしろ、二人でなら、どんな困難も楽しんで乗り越えていけるだろう。


俺は、イザベラの体をそっと離すと、彼女の涙を指で優しく拭ってやった。


「さあ、帰ろうか、イザベラ。俺たちの家に」


「……はい、あなた」


はにかみながらそう答える彼女の顔は、夕日に照らされて、世界中のどんな女神よりも美しく輝いて見えた。

俺たちは、しっかりと手を繋ぎ、未来へと続く道を、二人で歩き始めた。

モブ護衛騎士に転生した俺の物語は、まだ始まったばかり。

最高のハッピーエンドを目指して、俺はこれからも、全力で彼女を幸せにし続けることを、心に固く誓うのだった。


***


丘の上での誓いから一夜が明けた。

昨日の出来事が、まるで夢だったのではないかと思うほどの幸福感に包まれながら、俺は目を覚ました。

差し込む朝の光が、やけに眩しく感じる。世界が、昨日までとは違って見えた。


俺はヴァインベルク公爵邸の一室を与えられ、今日も今日とてイザベラの護衛という名目で、彼女の傍にいる。

公爵閣下から、正式に俺たちの婚約が認められたわけではない。あくまで「未来の夫候補」として、試されている段階だ。

だが、あの夜、閣下と酌み交わした酒の味は、確かに俺たちの関係を新たなステージへと押し上げてくれた。


コンコン、と控えめなノックの音が部屋に響く。


「レオン、起きているかしら?」


扉の向こうから聞こえてきたのは、世界で一番愛しい声。


「ああ、もちろんだ。入ってくれ、イザベラ」


俺がそう言うと、扉がゆっくりと開き、朝の光を背負ったイザベラが姿を現した。

彼女は、室内用の簡素なドレスを身にまとっているだけなのに、その美しさは筆舌に尽くしがたい。恋は人を綺麗にするというが、彼女の場合はもはや神々しささえ感じさせるレベルだ。


「おはよう、レオン」


イザベラは、にこりと微笑むと、俺のベッドのそばまでやってきて、その縁にちょこんと腰掛けた。

その自然な仕草に、俺の心臓がどきりと跳ねる。

これまでは考えられなかった距離感。俺たちは、本当に恋人同士になったのだと、改めて実感する。


「昨日は……よく眠れたかしら?」


少しだけ顔を赤らめ、上目遣いで尋ねてくる彼女。

その瞳には、期待と、少しの不安が入り混じっている。

昨夜、俺たちがどんな会話をしたのか、覚えているのだろうか。


「ああ。君のおかげで、最高の夢が見られたよ」


俺は、そう言って彼女の手をそっと握った。


「俺も、君のことを考えて、なかなか寝付けなかったけどな」


「もう、レオンったら……!」


イザベラは、顔を真っ赤にして俺の肩を軽く叩いた。

その仕草の一つ一つが、たまらなく愛おしい。

朝から、こんな甘い時間を過ごせるなんて、俺は世界一の幸せ者だ。


「さあ、いつまでも寝ていないで。朝食の準備ができているわよ。今日は、あなたが大好きな、厨房特製のオムレツですって」


「本当か? それは嬉しいな」


俺はベッドから起き上がると、手早く身支度を整えた。

イザベラは、その間もずっと、嬉しそうに俺のそばを離れようとしない。まるで、小さな雛鳥が親鳥について回るかのようだ。


二人で食堂へと向かうと、そこにはすでに、アンナとリリアの姿があった。

彼女たちは、俺たちの姿を見るなり、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべてくる。


「おや、噂をすれば。昨夜は、さぞお楽しみだったんでしょうねえ、お二人さん?」


アンナが、肘で俺の脇腹をつつきながら言った。


「そうそう! 丘の上で、熱い口づけを交わしたって話じゃないの! しかも、プロポーズまでしたとか!」


リリアも、どこから仕入れてきたのか、正確すぎる情報で俺たちをからかってくる。

彼女の情報網は、本当に恐ろしい。


「なっ……! だ、誰からそんなことを……!」


イザベラが、顔を湯気が出そうなほど真っ赤にして抗議する。

その慌てぶりが、また可愛いのだが。


「まあまあ、いいじゃないの。幸せそうで何よりだよ。で、レオン。あんた、ついにイザベラ様のことを『イザベラ』って呼び捨てにできたんだって?」


アンナの追撃に、俺はぐっと言葉を詰まらせる。

確かに、昨日は勢いでそう呼んだが、改めて面と向かって呼ぶのは、まだ少し気恥ずかしさが残っている。


「……まあ、な」


俺が曖昧に答えると、イザベラが俺の服の裾をくいっと引っ張った。

見ると、彼女は潤んだ瞳で、じっと俺を見つめている。


「……レオン。私のこと、呼んで……?」


その、か細い、しかし切実な願いに、俺は抗うことができなかった。

周囲のからかいの声など、もはや耳には入らない。


「……イザベラ」


俺が、彼女の名前を呼んだ瞬間。

彼女の顔が、ぱあっと、満開の花のように輝いた。

その笑顔だけで、俺はどんな困難にも立ち向かえる気がした。


「はい、レオン……!」


彼女の嬉しそうな声が、俺の心に温かく響き渡る。

アンナとリリアは、そんな俺たちの様子を見て、呆れたように、それでいて幸せそうに、ため息をついていた。


朝食の後、俺は公爵閣下に呼ばれ、再びあの執務室へと向かった。

昨夜とは違い、そこにはアルフレッド王子の姿もあった。


「レオン、来たか。座りたまえ」


公爵閣下は、いつもと変わらぬ威厳のある口調でそう言った。


「まずは、昨日のドラゴン騒動の後始末だが、概ね片付いた。騎士団の損害も軽微で、領民にも被害は出ていない。これも、君の活躍あってこそだ。改めて、礼を言う」


「もったいないお言葉です」


俺は、深く頭を下げた。


「しかし、問題は残っている」


アルフレッド王子が、厳しい表情で口を開いた。


「あのドラゴンが、自然発生したものでないことは、ほぼ間違いない。何者かが、召喚魔術か、あるいはそれに類する禁術を用いて、意図的に呼び出した可能性が高い」


「やはり、黒幕『X』の仕業でしょうか」


俺が尋ねると、王子は静かに頷いた。


「おそらくはな。フレイアの陰謀は阻止したが、奴らの本当の目的は、まだ謎に包まれている。今回のドラゴン騒ぎは、我々に対する警告、あるいは、さらなる混乱を引き起こすための序章に過ぎないのかもしれん」


王子の言葉に、部屋の空気が再び緊張に包まれる。

俺たちの平穏な日常は、まだ薄氷の上にあるのだ。


「そこで、レオン君。君に、新たな役目を与えたい」


公爵閣下が、俺の目を真っ直ぐに見据えて言った。


「新たな、役目……ですか?」


「うむ。君には、これまでの護衛騎士としての任に加え、我がヴァインベルク騎士団の特別顧問に就任してもらいたい」


「と、特別顧問!?」


俺は、思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。

それは、騎士団の戦術や訓練において、多大な権限と発言力を持つ、非常に重要な役職だ。一介の騎士である俺が、そんな大役を……。


「君の持つ、常人離れした戦闘能力と、そして、あのドラゴンを単独で討伐した知識。それを、我が騎士団の強化のために役立ててほしいのだ。もちろん、アルフレッド殿下も、王家として君の就任を全面的に支持してくださる」


「レオン。君の力が必要なんだ。この国を、そしてイザベラ姉様を守るために、力を貸してくれ」


王子もまた、真剣な眼差しで俺に頭を下げた。

断る理由など、あるはずもなかった。


「……分かりました。未熟者ではございますが、その大役、謹んでお受けいたします」


俺がそう答えると、公爵閣下とアルフレッド王子は、満足そうに頷いた。

こうして俺は、知らず知らずのうちに、この国の運命を左右する、重要な立場へと押し上げられていくことになった。

もちろん、俺の目的は、ただ一つ。

愛するイザベラを、あらゆる脅威から守り抜き、彼女と幸せな未来を築くこと。

そのために、俺はどんな困難にも立ち向かう覚悟だった。


その日の午後、俺は早速、特別顧問としての初仕事に取り掛かった。

まずは、ヴァインベルク騎士団の訓練を視察し、現状の問題点を洗い出すことから始める。


騎士たちの実力は、決して低くはない。一人一人の練度も高く、統率も取れている。

だが、俺から見れば、まだまだ改善の余地はあった。

特に、対大型魔物、対特殊能力持ちの敵を想定した訓練が、圧倒的に不足している。


「これでは、またドラゴン級の敵が現れたら、対応できない」


俺は、騎士団長に、訓練メニューの抜本的な改革を提案した。

最初は、俺のそのあまりにも大胆な提案に、騎士団長や他の騎士たちは戸惑い、反発した。


「な、何を言うか、レオン顧問! 我々は、これまでこのやり方で、ヴァインベルインベルク領を守ってきたのだぞ!」


「そうだそうだ! ポッと出の若造に、何が分かる!」


だが、俺は臆することなく、彼らに言い放った。


「ならば、聞こう。昨日のドラゴン騒ぎ、俺がいなければ、あなた方はどう対処するつもりだった? あのままでは、間違いなく多大な犠牲者が出ていたはずだ。それでも、これまでのやり方に固執するのか?」


俺のその言葉に、騎士たちはぐっと言葉を詰まらせる。

そこへ、アルフレッド王子が助け舟を出してくれた。


「皆、聞くのだ。レオン顧問の言うことは、もっともだ。彼の知識と経験は、我々が持っていない、新たな可能性を示してくれるはずだ。ここは、一度、彼のやり方を試してみるべきではないか?」


王子のその一言で、騎士団の空気は一変した。

彼らは、しぶしぶながらも、俺の提案を受け入れることに同意した。


俺は、早速、前世のゲーム知識や、現代の戦術理論を応用した、新たな訓練プログラムを作成した。

それは、これまでの常識を覆すような、実践的かつ効率的なものだった。


最初は、半信半疑だった騎士たちも、訓練を重ねるうちに、その効果を実感し始め、次第に俺に対する見る目が変わっていった。

侮りと嫉妬の目は、いつしか尊敬と信頼の目へと変わっていた。

俺は、少しずつだが、特別顧問としての立場を、確固たるものにしていった。


そんな目まぐるしい日々の中、俺にとっての唯一の癒しは、やはりイザベラと過ごす時間だった。

彼女は、俺が訓練で疲れて帰ってくると、いつも笑顔で迎えてくれ、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。


「レオン、お疲れ様。お風呂の準備、できているわよ」


「ああ、ありがとう、イザベラ。君がいると、本当に疲れが吹き飛ぶよ」


「ふふ、おだてても、何も出ないわよ? ……でも、もっと言ってくれてもいいのよ?」


そんな甘いやり取りが、俺の心を温かく満たしてくれる。

ある夜、俺たちは二人で、屋敷のバルコニーから星空を眺めていた。


「綺麗ね、レオン……」


イザベラが、俺の肩にそっと寄りかかりながら呟いた。


「ああ、綺麗だな。でも、君の美しさには、敵わないけどな」


俺のその言葉に、彼女はくすりと笑った。


「もう、あなたはいつもそうなのね。でも……嬉しいわ」


彼女は、そう言って俺の胸に顔をうずめた。

その温もりを感じながら、俺は改めて誓う。

この腕の中にある幸せを、俺は絶対に手放さない。

たとえ、どんな敵が、どんな困難が待ち受けていようとも。

俺は、この愛する人のために、戦い続けるのだと。

星空が、そんな俺たちの誓いを、静かに見守っているようだった。

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