今夜の宿
道の駅からすぐに着いたのが大沼国定公園だ。駒ヶ岳の噴火で出来た沼だそうで、その駒ヶ岳ってのは今でも活火山らしい。昭和四年の大噴火の時には火砕流も発生して、雲仙の普賢岳噴火の二倍の火山灰と軽石を一昼夜でまき散らしたって言うから怖いよ。
とは言え今日は大人しそうだ。大沼って百二十ぐらい島が点在する綺麗なところで、そうだな、函館市民のオアシスみたいなところじゃないかな。そう書くとささやかなところみたいに思うかもしれないけど、
「北海道はデッカイどう」
コータローは幾つなんだよ。
「千草の一つ下や」
たった十日ぐらい遅く生まれたぐらいで若ぶるな。生まれ年こそそうだけど、同学年だろうが。さて今日の宿はどこかな。
「あったあった、右に入るで」
瑞の杜ってなんて読むのかとおもったら『みずのと』なのか。
「なんか干支みたいやな」
なんだそりゃ。干支の干の方は甲乙丙丁で大昔の成績評価に使っていた事ぐらいは知ってる。これが全部で十個あるのだけど、二個ずつペアにして木火土金水とするのだそう。つまり甲乙はペアで木になるのだけど甲が陽で兄となり、乙が陰で弟になり、読む時には、
甲・・・きのえ
乙・・・きのと
こうするのだって。十干の最後は壬癸になりこれは水になるから、
壬・・・みずのえ
癸・・・みずのと
クソ長い説明だったけど、よくもまあ、こんな下らないことを知ってるのに呆れた。歴史オタクもここまで来たらビョーキだよ。チェックインして部屋に入るとロフトがあるのか。こういうのはなんか楽しいな。ロフト付きの家なんてそうはないものね。
「ロフトは畳敷きの座敷になってるで」
ホントだ。四人まで泊まれるってなってるから、残りの二人はここで布団を敷いて寝るのかな。もし四人で泊まってベッドを割り振るのなら、子どもだったらロフトに行きたがるかも。
「大人でもそんなん多いんちゃうか」
コータローならそうしそうだ。
「千草もやろが」
バレてるか。さてとお風呂だけど大浴場は無いのか。活火山の麓にあるのだから、掘れば温泉ぐらい出そうなものなのにな。そうなると部屋風呂になるな。
「一緒に入ろか」
狭いからやめておこう。ツーリングで汚れてるからしっかり洗いたいもの。それが妻たるものの心得だ。妻の座って法律で保障されてるけど、それに胡坐をかいてたらいけないんだよ。常に魅力を保って、愛する夫に気に入ってもらう不断の努力が求められる、
それをサボると公式の妻であっても捨て去られてしまう。そこに千草の油断は無いよ。夫だって男だから、妻が魅力的である方が嬉しいだろうし、妻が魅力的であればこそ、妻をより愛する気持ちが掻き立てられるってことだ。
だから鏡は嫌いだ。どんなに努力したって映っているのはブサイクの千草なんだ。これまでの人生でどれだけ鏡を見てため息を吐いた事か。神様ももうちょっとマシなものを与えてくれないものかな。
でも人生ってあまりにも不思議すぎる。もしだよ、千草にせめて人並みの美貌とスタイルがあったら、保証付きで別の人生を歩んでた。千草は独身主義者じゃないし、結婚願望だってしっかりあったもの。
だからもっと早く結婚してたたはず。相手はもちろんコータローじゃない別の男だ。もしそうなっていれば、北海道まで来てるのに干支の読み方なんて、クソしょ~もない講釈を長々と聞かされる災難に遭わなかったはずだ。
それで幸せだったかどうかは、それこそやってみないとわかるはずないだろうが。でもないか。千草には結婚してからわかってしまった衝撃の事実がある。不妊症に限りなく近いんのよね。ゼロじゃないだけで極めて可能性が低いぐらい。
つまり千草は女としても欠陥品になる。コータローはそれを知ってもビクともしなかったけど、コータロー以外ならどうなったかはまさに未知数。決めつけるのは良くないのは知ってるけど、結婚してささやかな幸せでも掴む必要条件は子どもなんだよね。
夫婦が子どもを望むことなのは不思議でもなんでもなく、結婚式の次のハッピーイベントぐらいにしてる人も多いはず。当たり前なら結婚とセットみたいなものとしても良いはずだ。やった事ないから知らないけど、夫婦の幸せって子育てフェーズに移行してからってとこはある気もしてる。
でもそれが千草には出来ないんだよね。そうなるとどうなるかだ。それこそ相手次第で、離婚だって普通にある。男だって子どもが欲しいのは当たり前だもの。欲しけりゃ、相手を変えるのが手っ取り早いと言うか、それしか方法が無いぐらいだ。
もちろん離婚だけがすべてじゃなくて、子無し夫婦を選択するカップルだっている。どっちになるかなんてロシアンルーレットの世界だ。ここで問題になるのは千草の年齢だ。コータローが千草の不妊症をあれだけあっさり受け入れたのはそこもあると思ってる。
そもそもなんだけど、まともに子作りに突き進んでも高齢出産の土俵際なんだよ。高齢出産のリスクはあれこれあるけど、コータローは異常児を怖がったのはありそうな気がする。小児科医じゃないけど、あれでも医療のプロだ。素人の何百倍も知ってるものね。
ここなんだけどもう一つの結婚の選択コースに進んでいたらまだ若いのよ。男だって相対的に若いから、子作りのためにやり直しに傾いたって薄情とか、人非人と思う存分罵れるかと言えば、そうは言えないところがあるんだよね。
だから、どう考えたってすんなり幸せコースに入れそうにない気がする。どっちかと言うとバツイチコースが濃厚だろ。じゃあ、じゃあ、バツイチになってコータローに拾ってもらえて、終わり良ければすべて良しになるかと言えば、これまた難しい。
コータローに拾ってもらうには、とにもかくにもあの同窓会に出席するかどうかにかかってくる。独身だってなんとなく敷居が高いと感じていたのに、バツイチで出席できるかって話だ。でも出席しなければ今は無い。
人生なんてやってみなければわからない事が多すぎる。けどさぁ、けどさぁ、もう一つの可能性をすべて阻み続けたのがこのブサイクだ。結婚どころか恋人さえ出来る気配もなかったんだ。なんかさ嘉門達夫の歌みたいな人生だったもの、
『マグロに、ハマチに、エビに、タコ
みんなどんどん売れて行く
なのに私は回るよ回る
回り続ける私はバッテラ』
そんな千草をつまみ食いさえしようとする男さえ現れないんだもの。処女だけは遊び食いされたけどね。女としての幸せをすべて諦めていた時に現れたのがコータローだ。こんな千草に都合の良い相手がこの世に存在してるのが奇跡みたいな男だよ。
見た目とか、医者であることだけでも仰天ものだけど、あれだってそうであるのは嬉しいけど本当の奇跡はそこじゃない。あの歪み切った女性観だ。冗談でだってあり得ないぐらい。だってだぞ、ブサイクの千草に変態性欲を煮え滾らせてくれるんだもの。
こんなものどうやって信じろと言うのよ。二度と使われる事なく封印されてしまっていた女は復活させられ、煮え滾る欲望を受け止める幸せを与えられた。それだけじゃない、永遠に千草にのみその煮え滾る愛を捧げると誓ってくれて、今日までそのことを立証し続けてくれている。
こんな事って世の中に本当に起こって良いものかの不安さえあるもの。だからね、千草の覚悟は半端なものじゃない。どう考えたって次は無い。千草はどんな手を使ってでもコータローを手放さないと決めてる。
「千草、上がったで」
今夜のために隅々まで洗わないと。それぐらいしか出来ないのが本当に悔しいし、情けない。どうしてこんなにブサイクなんだよ。どこか一つぐらい、千草のここだけは自信をもてるところが欲しいよ。
千草もお風呂から上がってまったりしていたら食事の時間になった。ここは当然のようにレストランなんだ。つうかツインルームで部屋食なんか聞いたことも無い。なんか木製のテーブルに案内されたのだけど、これってお鍋よね。
「豚チリでエエと思うんやけど・・・」
食べてみたら不思議な味だけど美味しいよ。これは和風じゃなくエスニックだけど、
「カンボジア料理でスープチュナンダイって言うらしいけど・・・」
北海道でカンボジア料理が食べるなんてね。朝も昼も海鮮丼だったからバランスとしてもちょうど良いかな。しっかり堪能してから暖炉がある共有スペースに。冬は薪が燃やされるんだろうな。
「千草は柳ケ瀬行ったことがあるか?」
これは岐阜の柳ケ瀬じゃなく神戸のバーだ。一度だけだけどあるよ。あそこも神戸では老舗バーだけど、
「あそこも暖炉があったやん」
あったあった。なんか焼き芋焼いてたはず。ここも焼けるのか。
「どやろ。なんか焼きにくそうや。この形やったら暖炉の上でお肉のあぶり焼きが出来るんちゃうか」
どうだろ。その手の薪のコンロと言えば、
「伊藤グリルやろ」
さすがに知ってるか。あそこも久しぶりに・・・しまった。
「ツーリングが終わったら行くで」
千草の願いはコータローには打てばすぐに響き過ぎるんだ。だから注意してたんだけど、やっちゃった。でもこうなると止めようがない。止めたって防ぎきれないのは学習した。行きたかったのは間違いないから付き合ってあげよう。どうしてこんなに良い男なんだよ。
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