第1章「色を失った春」

春の陽はやわらかく街を包んでいた。

街路樹の枝先には淡い桜の蕾がほころび始め、歩道には新しい靴の音が軽やかに響く。

だが、藤原紗世の目に映る世界には、かつてのような色彩はなかった。


まるでモノクロームのフィルムを通して景色を見ているかのように、桜の薄桃さえも、灰色がかった霞の中に溶け込んでいた。

春は、こんなにも明るいはずなのに——心の奥底は、冷え切ったままだった。


五年前の春。

最愛の人、繭を事故で失ってからというもの、紗世の季節感は止まったままだった。




芸術大学の四年生となった今、紗世は卒業制作の準備に追われていた。

写真専攻の彼女には「街と記憶」をテーマに自由な作品を求められている。


「藤原さん、あなたの視点で、“街”を切り取ってごらんなさい」


ゼミの指導教授がそう言ったとき、紗世は曖昧に頷くだけだった。

心の中には霧がかかったままで、何を写したいのか、何を表現したいのか、輪郭すら見えてこない。


周囲の学生たちは活気に満ちていた。

カメラを片手に街へ飛び出していく仲間たちの姿が、遠くに感じられた。




自宅のアパートは静かだった。

白い壁と最小限の家具、テーブルの上に冷めた紅茶。


テレビはつけてはみるものの、画面の中の賑やかさは耳に届かない。

洗濯物が乾く音、時計の針の進む音、そんな音たちがやけに響く。


留守電に、父・健吾の声が残っていた。


「紗世、元気にしてるか。

あの……無理せずな。

何かあったら、いつでも連絡してこい」


淡々とした声。

その言葉の裏に、不器用な優しさが滲んでいた。

でも紗世は、携帯を握ったまま返信しなかった。


日記帳を開く。

白紙のままのページがいくつも続いている。

ペンを持つ指が宙をさまよい、やがて閉じられる。




ふとした拍子に、繭の影が心をかすめる。


食器を片付けているとき、何気なく触れた湯呑みに、ふたりでお揃いで買った記憶が宿っていた。


目を閉じれば、あの声が聞こえる気がする。

笑い声、写真を撮るときの少し照れた表情、ふとした会話の断片。

けれど、手を伸ばしても、そこには何もない。


写真立ての裏にしまっていた、二人で最後に撮った写真。

少しだけ傾いたフレームの隙間から、その写真が覗く。


見てはいけない。

そう思いながらも、心が揺れる。




桜が咲き始めていた。


それでも、紗世の目に映るのは「色のない景色」だった。


ゼミで出された課題をこなすために、紗世はカメラを持って街に出ることにした。

重たい足取り。

肩に下げたカメラのストラップが、歩くたびに胸元で揺れる。


シャッターを押す指は、どこか遠い場所にあるようだった。


街を歩いているうち、ひとつの古びた店先に目が留まった。


ブローチ専門の小さな店。

そのショーウィンドウに飾られた一点が、彼女の足を止めた。


それは、「ひとひらの桜」を象ったアンティークのブローチだった。


小さな銀の台座に、透き通るような淡いピンクの花びらがひとつ。

繊細な細工で、まるで本物の花びらがそのまま閉じ込められているようだった。


記憶の底で、何かが揺らいだ。


子どもの頃、繭と一緒に見た桜。

あの時の空、あの風、指先に触れた柔らかな花びら。


胸が、ちくりと痛んだ。

その痛みの奥に、もう少しだけ深く潜れば、きっと温かな何かがあるような気がした。


紗世は立ち尽くしたまま、そのブローチから目を離せずにいた。


その瞬間——ほんの少しだけ、世界に色が差し込んだ気がした。

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