第13話 秋の風

 渡会が平岡の家に着いたのは、22時を少し過ぎた頃だった。

 平岡は食事の準備を終え、凪を起こそうとしたが、ぐっすり眠っている凪に、なぜか声を掛けられなくなり、そのままソファで眠らせていた。

 いろんな思いが葛藤する。


「すみません、連れて帰ります。」

 男の渡会はそう言って玄関から中を覗いた。

「まあ、上がれよ。」

 平岡は渡会を家にあげた。

 リビングのソファで眠っている凪を見た渡会は、凪の頭に手を置いた。

「渡会くん。」

 目が覚めた凪は驚いて、身体に掛けてあった薄手の毛布を頭から被った。

「渡会。」

 渡会が声を掛けても、凪は毛布を被ったままだ。

「お前、子供みたいだぞ。迎えにきたんだから、早く帰れよ。」

 布団の中で、凪が首を振っているのがわかる。

「いつまでもここにいたら迷惑だろう?」

 渡会はしゃがみ込んで、毛布越しに凪に言った。

 俺にとって渡会がここにいることは、けして迷惑なんかじゃない。できればここに泊まって、一晩中話しをしていたっていい。

 平岡はそんな気持ちを隠すように深呼吸をすると、

「さっさと行けよ。しばらく会社を休むって、俺から秘書課の課長に、話しておいてやるから。」

 そう言って凪の毛布を取った。

「これは、俺のだ。お前が使ったままだと、こっちは眠れないんだ。」

 顔を見せた凪の左手を、渡会の左手が握った。

「お前ら、揃って左利きなのか?」

 平岡が言った。

「そういえばそうだったな、渡会。」

 男の渡会は凪の顔を見た。目を反らした凪は、今にも涙が溢れそうだった。


 俺は渡会が泣いた顔を見たことはない。嬉しくて泣く事も、悔しくて泣く姿も、会社に入ってから見たことはなかった。いつも強がりで、ひとつの仕事が片付けば、次の仕事への準備にかかる。人をうまく頼れないから、冷たいやつと誤解される事も多かったし、弱音を吐かない分、出される課題は多くなっていく。

 そんな緊張感でバランスを取っていた渡会ですら、飛んできた矢を避け切る事ができなかった。たぶん、女の多くが、そんな矢が飛んできたら避け切る事なんてできやしない。その矢の先に自分がいたのかと悔やんでも、狩りをする男達は、初めから逃げ切れない獲物を狙っているんだ。

「帰ろうか。」

 男の渡会は凪の手を引いた。

 初めて手を繋いだ純粋な子供の様な情景に、平岡は自分でもおかしいくらいに嫉妬した。

「まったく、幼稚園のガキみたいだな。いいから早く帰ってくれよ。」

 

 渡会は助手席に乗った凪の膝に、自分が着ていたパーカーを掛けた。

「寒くないか。」

 そう声を掛ける。

「大丈夫。」

 凪の家を通り越して、渡会は自分の家に向かっていた。

「うち、こっちだけど。」

 凪が言った。

「しばらくうちに泊まれよ。これからの事は、ゆっくり考えればいいから。」

「ううん。一人にさせて。一人でゆっくり考える。」

 凪は渡会の顔をまっすぐに見ることができなかった。久しぶりに会った渡会の言葉が、自分を死刑台の階段へ後押しするようだ。

「一人になんかさせないよ。渡会、もしかして変な事考えてたりしないよな?」

「そんなの、しないよ…。」  

 凪はそう言って目を固く瞑った。このまま消えてなくなりたい。渡会に話す勇気もなければ、話したところで罪は軽くなるわけでもない。とてつもなく長い時間を過ごしている様で、自分に与えられた言い訳の時間なんて、ほんの数分しかないはずだ。

 渡会のカーステレオから、昔の曲がかかった。

「渡会、この曲、好きだったよな。」

 渡会の話しに、凪は目を開けた。

「うん、そうだね。すごく流行っていたし。」

「映画の曲だったっけ。ほら、女の子が病気になる話し。」

「違うよ。女の子の父親を、母親が殺しちゃう話し。」

「ああ、そっちの話しか。」

「悲しい話しだったよね。最後は2人とも結ばれない。」

「そうか、結ばれなかったのか。」

 凄惨な出来事も、小説になれば主人公が罪を犯した理由に共感される。私が犯した罪も、誰かが小説にしてくれたら、そんなふうに共感されたりするのかな。

 いつの間にか、車の中で凪は眠っていた。

 渡会の家から一番近くの交差点を曲がる所で、凪が目を覚ました。

「もう、そろそろ着くから。」

 渡会はそう言ってハンドルを回す。


「入って。」

 いつまでも玄関の前にいる凪の左手を、渡会は握った。

 驚いて渡会の手をパッと離した凪は、何かに怯えている様だった。

「そうだ、渡会。渡したい物があるんだ。」

 渡会は部屋の中から、古い封筒を持ってきて、凪に渡した。

「これ。」

「入って。ここで読まれると恥ずかしいから。」

 渡会の言葉に促されて、凪はゆっくり家に入ってきた。

 テーブルには、食べ掛けの食事が置かれたままになっていた。

「ごめん、片付けるわ。」

 渡会は冷たくなった食事を片付けようとした。

「渡会くん、ご飯の途中だったの?」

「うん。恥ずかしいから見るなって。」

 渡会はそう言って食器をキッチンへ持っていった。

「私が洗うよ。」

 凪は渡会の後をついてきた。

 洗い場には、さっき片付けた食器の他に、朝食で使ったであろう食器や、夕食を作った鍋やプライパンがそのままになっていた。

「いいから。あっちで休んでろよ。」

 渡会がそう言ったが、手紙をテーブルに置いて、またキッチンにやってきた。

「貸して。」

 渡会が持っている泡のついたスポンジを、凪は手に取った。

「少し時間を掛けないと、キレイにならないよ。」

 凪は泡をつけた食器を積み重ねていく。

 食器を濯ぎ始めた凪に、

「渡会はやっぱり、黒い髪の方が似合うな。」

 渡会はそう言った。

 凪は食器を拭こうと、布巾を探してキョロキョロと近くを探した。

「ここにある。」

 渡会は凪に布巾を渡した。

 のんびり食器を拭いている凪に、

「あとは俺がやる。」

 渡会が言った。

「ごめん、のんびりし過ぎたね。」

 凪は急いで残りの食器を拭いた。凪は時々遠くを見てぼんやりしている。現実に連れ戻された時の凪の顔は、目が合っているはずなのに、怯えた視線はその場をウロウロしている。

「遅くなったな。先に風呂に入ってこいよ。」

 時計は午前1時を過ぎていた。

「渡会くん、明日は仕事?」

 凪が聞いた。

「そうだな、明日も仕事。」

「そっか。遊んでいるのは私だけか。」

「ゆっくり休めよ、俺はそれしか言えないから。」

 渡会は凪に着替えを渡すと、浴室へ連れていった。

 

 シャワーを浴びながら、何度も溢れてくる涙を流した。こんな風に声を殺して泣く事にも慣れた。

 濡れた髪を乾かす様に、涙もすぐに渇いてしまう。

 渡会の用意したスウェットを頭から被ると、襟が首に抜ける前に、また涙が流れてくる。

 渡会が脱衣場にやってきた。

 スウェットを頭を通したままの凪を捕まえると、服を下ろし、顔を出させた。

 涙で目を腫らしている凪にむかって、

「先に寝てろ。」

 そう言った。

「うん。」

 ベッドへ向かう途中。

 机の上に置いた手紙の封を開けると、中に入っていたのは便箋ではなくて、ノートを破ったものだった。


 今度 一緒に バドミントンやろう


 そう書かれた文字を見て、凪はまたスウェットを顔まであげて泣き出した。

 戻れない過去が純粋であればあるたび、自分の罪が重くなる。

 北川に言われて男性と関係を持ったとはいえ、自分が受け入れてしまった事は、合意だったと言われても仕方がない。

 忘れ物をした言い訳や、守れない約束のおかしな理由なら、あとから笑って話せるかもしれないけれど、自分を一生責めたって、笑えない事ってあるんだよね。

 大きな消しゴムで、私が生きてきた人生を消しても、一度文字を書いたノートは新しくはならない。また、その上に書かれた文字を消しているうちに、ノートは破れて、次のページをめくっていくんだ。私の次のページは、真っ黒で何も書くことはできない。これが、罪を犯した者の明日なんだから。


「渡会、それじゃあ苦しいだろう。」

 浴室から出てきた渡会は、スウェットから凪の顔を出せた。

「なんでそんなに泣いているんだ?」

 渡会は凪の頬を触る。

「手紙になんて、書くことなかったのに。言ってくれたら、ちゃんと答えたのに。」

 凪はさっきの手紙を渡会に見せた。

「本当だな。それだけの事なのに、なんで言えなかったんだろうな。」

 渡会が言った。

「大人になんてなりたくなかった。」

 凪の頰にまた涙が伝った。

「渡会、こっち。」

 渡会は凪をベッドに呼んだ。

「ゆっくり休め。」

 渡会はそう言うと自分はソファで横になった。

 

 朝早く。

 渡会が眠っているそばに座っていた凪は、渡会の茶色の髪を少し触った。 

「バレてるぞ。」

 渡会は凪の手を掴んだ。

「ずいぶん早起きなんだな。眠れなったのか。」

 渡会が言った。

「渡会くんの寝てる顔、見たかった。」

 凪は渡会の書いた手紙を持っていた。

「それ、どこかへしまっておけよ。そうやっていつまでも持ってられると、なんか恥ずかしいな。」

 渡会は起き上がった。

「今日はなるべく早く帰ってくるから。時々連絡もする。だから、ずっとここにいるんだぞ。」

 

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