『ヒトという檻』
@ti-ya
第1話 スイッチ
「……西園寺さんって、本当いい人ですよねぇ」
そう言われた瞬間、西園寺ひとみは笑った。営業部の後輩・田中が、口に紅茶のティーバッグをつけたまま褒めてくる。
「そんなことないですよ〜」
口元に浮かぶ笑顔は、完璧な“マニュアルどおり”のもの。頬の筋肉を少しだけ持ち上げ、目尻をゆるめ、首をかしげる角度は3度。化粧で消したクマの奥では、ただ一つの感情が燻っていた。
(またバカなこと言ってる。お前が毎回同じミスすんの、誰のせいだと思ってんの?)
言葉は喉でせき止められ、ただ笑顔が残る。西園寺ひとみ、27歳、入社5年目。いつもにこやかで、誰にも文句を言わない、聞き上手で、優しい女。
職場でも、電車でも、実家でも。
本音はすべて、スマホの「メモ帳」に吐き出している。
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【5月12日 14:27】
田中〇ね。まじでなんで同じ資料3回も間違えてんの?目玉ついてんの?頭どうなってんの?
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【5月14日 21:03】
母親うざい。なんで彼氏いないのってまた聞いてくる?てめぇは何歳で結婚したんだよ。鏡見てから出直せ。
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誰にも見せない、真っ黒な自分の本音。
唯一、吐き出して生きていくための“安全弁”。
その夜も、風呂あがりにベッドの上で指を動かす。
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【5月15日 00:31】
部長、口くっさ。近寄んな。あと会議で喋らないで。ツバが資料に飛んでます。汚いんでマジで。
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そのまま眠った。
朝、起きるとスマホがない。充電器の上にない。
部屋中を探したあと、リビングに置きっぱなしだったことに気づいた。が、気づいたのは家を出た後だった。
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職場での朝礼。どこか空気が重い。
「……それでは、始業します」
部長が言った。西園寺が一歩動き出そうとしたその瞬間。
会議室のモニターに、突然ファイルが映し出された。
「これは……」
《メモ帳》
開かれたのは、自分のスマホのメモ帳だった。
──自分が昨日まで打ち込んだ、「本音」のすべて。
そこには名前つきで、同僚たちへの悪意、怒り、暴言が、ありありと記録されていた。
ざわめく空気。誰かが声を上げる。
「……西園寺、さん?」
振り返ると、全員の目が、自分を見ていた。
「これ……あなたのですよね?」
ひとみは、何も言えなかった。声が出ない。
口元が引きつる。ただ、笑わなければならない。
「え、えっと……なんかの冗談……ですよね?」
誰も笑わなかった。
その日、西園寺ひとみは、会社を休んだ。いや、正確には早退した。無理やり引きつった笑顔を貼りつけたまま、席を立った。
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電車に乗る。家に着く。部屋の明かりはつけない。
スマホは、朝と同じ場所に転がっていた。
誰が勝手に開いたのか。どうやって会社のモニターに映したのか。全く分からない。けど。
もう、どうでもよかった。
鏡の前に立つ。引きつった笑顔が、顔に張りついている。
──そのとき。
ふと、顔が笑っていないことに気づいた。
笑ってるのは、口元だけだった。
目は死んでいる。いや、何か別のものが灯っている。
そのまま、笑う。
口角が上がる。頬が持ち上がる。目尻が下がる。
でも。
「……やっと言えたわ」
口がそう呟いた。
誰に向かってでもなく、ただポツリと。
その日から、会社に西園寺ひとみの姿はなかった。
誰も彼女の行方を知らなかった。
ただ、一週間後。別の会社のモニターに、あるファイルが映し出されたという。
《メモ帳》
内容は、そこにいる社員たちへの“本音”だった。
一字一句違わず、完璧な暴言の羅列。
そこには、送信元として――
「西園寺ひとみ」
の名前が記されていたという。
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