第2章:ことばにならない名前

第8節『記憶のかけら、ひとの名を抱く』


家へ戻る道すがら、蓮(れん)は沈黙のままだった。

遼馬(りょうま)は、少し先を歩いていたが、何度も振り返りながら蓮の歩調を気にしていた。


森を出たとき、胸のなかにあった火は、まだ消えていない。

 けれど、その熱は、どこか冷めたようでもあった。


 突然、蓮は立ち止まった。

 遼馬も足を止める。


 「おまえ、……あの、名はあるのか?」


 遼馬の問いかけは、真っすぐで静かだった。

 蓮は答えず、胸元にある木札にそっと手を触れた。


 その瞬間、ふっと、ほたる婆の声が耳に届くような気がした。


 ——「おまえの名前はな、風の向こうにあるんじゃ」


 蓮は目を閉じた。

 声の響きが、祠で風に乗せられて届いた記憶とゆっくりと重なる──


「その木札、櫂はのう……祝子(ほうりこ)の者がいずれ使う“名前”になるという伝承があった。

名前とは……呼ぶもの、呼ばれるもの。その力を持つものは、霊でも祈りでもない“在(ある)もの”なんじゃ」


 ——そうだったはずの言葉が、痛いほど鮮やかによみがえる。


 蓮は一歩後ろへと下がった。

 胸の内がざわついて、答える声が出なかった。


 遼馬はゆっくり近づいてくる。

 蓮は無意識に目線を森の残り香に落とした。


 「おまえは、自分の名を、呼びたいと思ったことは……あるか?」


 言葉が届く。

 けれど、蓮の中にあるものが、素直に「はい」とは言わせない。


 「……わからない」


 ──自分すら、呼べる名前があるのかどうか。

 その不確かなもどかしさと恐れが、胸に刺さったまま、蓮の声は震えなかった。


 遼馬はそっと顔を寄せ、囁くように言った。


 「それでも……おまえに呼ばれる名前になりたいと思った」


 蓮は視線を上げた。

 言葉は唐突だけれど、その音の色に、届く感触があった。


 「……どういう意味だよ」

 冷たい問いが返る。けれど、裂けそうな心でも、その声は弱くなかった。


 「名を呼ぶには、理由がある。想いがある。

 おれは、――――――おまえを、どう呼べばいいのか、まだわからない」


 遼馬は言葉を切った。

 その余白に、蓮は胸を詰まらせた。


 ——「呼ばれる」ということは、誰かにとっての“一部分”になることなんだ。


 沈黙のなか、蓮は木札を胸に抱きしめていた。


 その重みが、どこか温もりのように感じられて。

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