第2章:ことばにならない名前

第3節:風のなかに、火はあるか



木立(こだち)の向こう、鹿道(ししみち)を踏み分けながら、ふたりは並んでいた。


さっきまでより、森の色が濃い。

日が高くなった分、枝葉の影がいっそう深く、地面に斑(まだら)を落としている。

朝露に濡れた草が衣にまとわりつくたび、蓮はそっとそれを払った。

遼馬も黙って、同じように払いながら歩いている。


──音が、ない。


そう思うほどに、森の中は静かだった。

鳥の声も、風の音も、今はただ遠く、耳の奥に籠(こも)って響いているだけだった。


「さっきの場所、なんだったんだ?」


ふいに、遼馬が言った。


「ほら、木が……全部、焼けてたろ。地面まで黒くなってて。…火事、だったのか、あれ?」


蓮は答えなかった。

けれど、歩みをほんの少し緩めた。


あの焼け跡は、祝子(ほうりこ)たちが語る「火の祓(はら)い」の跡。

長く根を張った木々が、ある日、ひと晩で灰になった。

誰も近寄らず、誰も何も言わない。

それでも、そこには何かが在った──それだけは、知っている。


「……風の通り道だったのかも」


そう言った蓮の声は、かすかに震えていた。


「風の……?」


「火は、風と一緒に動く。止まると、そこで燃え広がる。……ばあさまが言ってた」


「風と……火」


遼馬は足を止め、後ろを振り返る。

まだ焦げ跡の残る広場が、木々の隙間からわずかに見えた。


「なあ、おまえ」


遼馬が、また言う。


「祝子って……本当に、火を祓えるのか?」


それは、まっすぐな問いだった。

けれど、どこかで探るような響きもあった。


蓮は、答えない。


代わりに、森の奥を見つめる。

木々の揺れ方、土の匂い、空気の重たさ。

この場所で育った身体が、知っていることがある。


でも、それは──


「……知らないよ」


ようやく絞り出した声は、ただそれだけだった。

知らない。

知らないことにしている。

知っていたくないことが、あまりに多すぎる。


遼馬はそれ以上、何も聞かなかった。


ただ、ふと、立ち止まり、ひと息つくようにこう言った。


「……こないださ、おれ、おまえに変なこと言ったな」


蓮は顔を上げる。


「『森の匂いがする』って。あれ、なんか……言ってから、おれ自身びっくりしてさ。変な言い方だよな、匂いとか」


蓮は視線を落とした。


「でも……あのとき、ふと、思ったんだ」


「なんか……その辺の風の中に、おまえが混じってる気がした」


静かな森の中、遼馬の言葉はやけに響いた。

音のない風に、言葉だけがさざめくようだった。


蓮は、ふっと息を吐いた。


「……そういうの、たまに言われるよ」


「え、ほんとに?」


「ばあさまにも、似たようなこと言われたことある。『この子は、風の向こうにおる』って」


「風の……向こう?」


遼馬が繰り返す。

でもその声に、からかいや驚きはなかった。

ただ、何かを確かめるような、静かな響き。


「それって──祝子の血ってことか?」


蓮は、答えなかった。


ただ、風が吹いた。


一陣の風が、ふたりのあいだを駆け抜け、草をざわつかせた。

遼馬の髪が揺れ、蓮の袖がふわりと浮いた。


「……あ」


遼馬が声を上げた。


「見ろよ、あれ」


彼が指差した先には、小さな祠(ほこら)があった。


苔むし、欠けた石を寄せて作られた、ささやかなもの。

だが、蓮の目には、確かにそれが「境目(さかいめ)」に見えた。


この先に、何かがある。

祝子が隠してきた、名前のない“なにか”が──。

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