その風が吹いたなら飛べ
神木
第1話
嘴の打つ音が高空に響く。それはまるで稲妻のような恐ろしい響きを持っていた。
「入ったぞ!」
狩猟司のバイゼルジャンがしわがれた声で怒鳴る。耳孔に取り付けた通信呪機から流れてくる声は、振動に変換されて骨を通り、頭の中に直接聞こえるみたいだった。
短い言葉のあと、すぐに彼の嘴がまた打った。
呪法を受けた鯨の黒い大きなうねりはすさまじい風を起こして、周囲の狩猟者の体勢を崩す。そのうちの
くそ、と内心思いながら、背と肩の筋肉から繋が翼を羽ばたかせて、空気中に散っている呪素を捉えて羽ばたき、体勢を整える。飛行呪法の基礎、
暴風の中でも、姿勢の立て直しは慣れたものだ。トミルは狩猟司の無茶な狩猟についていけない鳥ではない。
風は鳥のものだ。風に乗り損ねて落ちてしまうのは鳥としても、ましてや狩猟者としても恥になる。それに風の下、低空には地面の毒が流れていると聞く。そんな死に方は死んでも死にきれない。
背筋が軋むのを感じながら、高度と速度を上げていく。嘴や頬を空気が打つ。狩猟衣の裾がはためく。上から見ると、空鯨はまるで黒と緑の楕円だ。肌に苔がまだらに広がったている。空鯨は動きを止めて、威嚇の呪法を散らすように空中で身体を震わせていた。
取り囲む狩猟者たちを追い越して、トミルは頭部に向かう。そこには深い土色の翼、鮮やかな色合いの嘴の鳥たちがいる。つい先ほど
「やれ!」
バイゼルジャンが濁った声で命じる。
普段の狩猟ならば、バイゼルジャンの
養父のジャシヤが死んだのは二日前だ。もともと老鳥だったし、寿命が迫っていたのは誰もが分かっていた。だから彼がいつまでも朝食にやってこなくて、自分のベッドで動かなくなっていたのを見たとき、トミルはあらかじめ決められたことのように粛々と弔いの準備を進めた。悲しむよりも早くしかるべきところに連絡し、バイゼルジャンに相談し、弔い猟の準備をした。
空鯨の頭に降り立つ。まるで空島のようにしっかりと、空鯨の肌はトミルの
生きているのだ、と思った。
この島じみた巨大な鯨は、やはり俺たちと同じように生きている。
これから、俺はこの鯨を殺すのだ。爺さんの弔いのために、お前を殺す。息をついて、萎えてしまいそうになる翼を鼓舞して歩く。ちょうど空鯨の頭のど真ん中にくると、彼は歩みを止めた。
「トミル! 行け!」
高空の激しい風に乗って、バイゼルジャンの怒鳴り声が聞こえる。全体通信じゃない。個人的な通信。トミルは嘴をわずかに開けて、息を吸った。胸郭が広がる。狩猟士の鍛えられた身体、胸が膨らむ。
もちろん数回刺したところで、狩猟者としての誇りは揺れない。だが、無用な苦しみを与えたいわけでもなかった。
悪いが、お前には死んでもらう。
嘴を閉じて、息を止める。トミルは渾身の力で
「ううううっ」
ぐらぐらと鯨が揺れる。痛みのあまり暴れているのだ。しかし
それはあるいは養父も持っていた温かさなのかもしれない。そう思って、くじけかける。養父の翼がトミルを温めたのはそう多くない。どれだけの体温だったのか、もう思い出せない。それでも、何か重たい気持ちに追いつかれそうになった。
バイゼルジャンの方に瞳を向ける。彼の厳しい瞳がまっすぐにトミルを射る。しかし彼は何も言わず、再び嘴を打った。がつん、というおどろおどろしい響きの
呪法は、呪素に意味を与えることで起動する。バイゼルジャンの放つ呪法はいつも苛烈な意味を持っている。しかし彼も、周囲の狩猟者たちも、
これは俺の仕事なのだ。
俺は俺に吹いた風に乗らなくてはならない。
トミルは狩猟司に向けかけた弱気を飲み込む。祖父の弔いはバイゼルジャンの仕事ではない、俺の仕事だ。嘴を打った。呪法の込めていない、単純な
かつん、という嘴の音を立てながら、トミルは
「トミルが弔いの槍を終えた!」
頭の中で、鳥たちの弔いの快哉が響く。
「弔いを!」
「弔いを!」
「弔いを!」
狩鳥たちが、バイゼルジャンの快哉に応える。弔いの声がトミルの頭に渦巻く。彼は狩猟の群れの遥か上で、翼を広げて応える。そして彼の下で、狩鳥たちが一斉に
数度ほど空鯨が身体を震わせた。最後に突き入れられたバイゼルジャンの
空鯨が命を失っていくのをトミルは上から眺めていた。定期的に小さく羽ばたきながら滞空し、空鯨の巨体がただの肉に変わっていく様を、彼はどのような気持ちになればいいか分からないまま見ていた。分厚い雲の層に、太陽を受けてきらめきながら暗紅色の血液が落ちていった。彼は先程まで武具を握っていた
両腕にはまだ肉の感触が残っていて、狩りの緊張を示すように震えていた。これまでに多くの動物を狩ってきた。この年にしてはかなり速く飛べた方だったし、小規模から中規模の狩りならば隊を率いることもあった。だというのに、この
彼の足元で、だらりとした空鯨が網に吊られて運ばれていく。向かう先は鳥たちが暮らす
「お前、翼が萎えかけただろう」
咎められる。肉の感触にくじけそうになって、思わず彼の方を見てしまったのがばれているらしい。
「すみません」
「ふん、どうなることかと思ったぞ。なんとかなったがな」
「
バイゼルジャンの呪法が空鯨の動きを止め続けていなければ、トミルは背中から落ちていただろう。あの
「お前のためじゃない」と言って、遠ざかっていく空鯨に嘴を向けた。長く
学術司を勤めていたジャシヤは、引退後にも医術具や狩猟具を開発していた。トミルやバイゼルジャン、狩猟に携わる者たちが耳に取り付けている通信機もジャシヤの手によるものだ。バイゼルジャンが暇な日には、たまに彼ら
「これから弔いの準備が続くだろう。よく休んでおけ」
「分かりました」
言って、トミルが運搬の列に向かおうとすると、バイゼルジャンの逞しい趾に肩を掴まれる。
「お前は運搬に混ざらなくてよろしい。ゆっくり戻ってこい」
そのぶっきらぼうな指示が、養父を喪った若者への気遣いであることをトミルは分かっていた。飛び立っていく狩猟司の翼にうなずいて、遠くなっていく空鯨を見送る。
少しの間だけ滞空して、身体を休めた。遠ざかっていく空鯨から、きらきらと血液がこぼれて、雲の海に落ちていく。その先は毒の満ちる大地だ。鳥の生きていけない毒の世界。
鳥たちはかつて大地に住んでいた。羽毛も嘴もなく、虚弱な身体に凄まじい知力を持っていた。しかし毒が地上に広がったことで、彼らは風の呪法によって鳥になった。鳥ならば誰でも知っている話だ。でもこの雲海を越えて大地を見た者はいない。だから大地なるものもただの神話であるかもしれず、ただ毒の風が吹く無窮が広がっているとも思われた。落ちた鳥が帰ってきたことはないのだ。死んだ鳥はその身体を保つことができずに風になるから。
であるならば、死んだ養父も今俺が浴びている風のどこか一部になるのだろうか?
思いながら、トミルは
その場で、縦に宙返りをしてみる。まだ十分に体力は残っている。風浴びの必要はない。羽ばたく。脚をぴったりと合わせて、嘴を前に向ける。速く進むための姿勢。
速く飛びたいと思う。
だから
風に乗ること、速く飛ぶこと。それは鳥の誇りであり、本能だ。様々なものの研究を生業とする学術者も、狩猟によって資材を集める狩猟者も変わらない。書物の風か呪素の風か、乗る風こそ違えど、誰もが乗っている。何をやっているか分からない部署の鳥もいるが。でもそんな奴らは関係ない。風に乗ることが大事なのだ。
しかし、足りない。この両手に染み込んだ肉の感じが、取れない。もっと速く飛びたい。飛行の快楽が足りない。不快な感触も振り切ってしまうほどの速度を求めて、トミルは
雲が流れていく。雲海の凹凸が視覚の中で失われ、なだらかな白い床に変わる。傾きかけた太陽の淡い色合いも吹き飛ぶようになる。
これでは足りない。
もっと速く――この身体がもどかしいくらい。
この生命の感じ、身体に纏わりつくもの、風を受け流す羽毛、狩猟の中で育ってきた筋肉、みんな置き去りにしてしまいたい。トミルはあらゆるものを速度に変えていく。身体のずっと深いところで、燃え上がるようなものがあった。それはこれまで生きてきた中でもっとも激しく燃え盛っている。
最高速度だ。
やがて、トミルの目の奥で、ぷちん、という感じがあった。初めて感じるものだ。雲と空の二色が滲む視界の端に、何か美しいものが見える。それは虹に見える。日光を受ける金属がふとしたときに見せる、不思議なきらめきの色だ。紅、紫、青、緑、様々な色彩に遷移する光の群れ。速度を増していくと、虹色は徐々に広がってくる。だがそんなものはこの空にはない。分かっているのに、その虹色に惹かれる気持ちになる。美しくて、視界の全部を埋め尽くしたくなって、そうしなければならない気がして――
「……っ!」
「あ……っぶねえ」
独語がこぼれた。
緩く曲がり、少しずつ速度を落としていく。この速度でいきなり止まろうとして、逆方向に羽ばたくと翼を傷めてしまうだろう。ゆっくりと安全な速度に戻す中、心臓が激しく鳴っていた。
恐怖と、悲しみと、うまく言葉にならない複雑な気持ちがあった。「トミル、お前は言葉が雑だ。ちゃんと考えなさい」とジャシヤはいつも教えていた。「お前の翼はお前が風に乗るためにある。そんなものの見方では、自分の風も分からんぞ」。
学術司を務めていた彼は、言葉より先に身体が動くトミルにそういう小言をしていた。乱暴な
速度を殺しきってからも、トミルは日が赤くなるまでその場にとどまっていた。嘴を開けて、身体に溜まった熱を放ち、心が凪を迎えるのを待った。
赤く染まった雲海には、都市の長い影が落ちていた。円と曲線によって作られた都市の根元の一角には薄く、落日の鮮やかな光を受けながら、ちらちらと輪郭を仄めかす、直方体の絡まりがあった。
直方体の群れは日光を透過する呪法壁に覆われていて、透明な卵殻に包まれたようになっている。トミルは目を細めた。その直方体の迷宮を抱えたその都市にも、トミルはどのような気持ちを持つべきか、彼には分らなかった。
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