第53話 にんじん
イモとの会話は弾み、あっという間に時間が過ぎていた。そろそろ宿に戻らなければならない。
別れ際、ミルはイモから借りた黒い馬を呼び出すベルを返そうとした。
「イモさん、ベル、ありがとうございました。お返しします」
ミルがベルをイモに差し出すと、イモは首を横に振った。
「いや、これはお礼だ、そのまま君に預けておこう。また腹が減ったら君を呼ぶかもしれないし、何より、君たちが私の話し相手に来てくれるのは大歓迎だ」
イモはそう言ってベルをミルに手渡した。それは、イモの庭園へいつでも来ていいという、再訪の誘いでもあった。
「え! いいんですか!? ありがとうございます!」
ミルは驚きと喜びに満たされてベルを受け取った。これは単なる道具ではなく、イモとの縁を繋ぐ、大切な絆となるだろう。
「そして、もう一つ言い忘れたことがあった。この馬のことだが、先ほどは片道分しか走れないと言ったが、感謝の印として、往復分走れるようにしておいた」
イモはそう言って、ガゼボの傍らで草を食んでいた黒い馬に目を向けた。
「片道分走ると一旦止まるから、そこで降りて休ませてやり、もう一度乗れば帰ってこれるはずだ」
移動距離まで増やしてくれたらしい。悪魔であるイモが、恩義に報いる律儀な一面を見せた。
イモに改めて礼を告げ、ミルとリンティは黒い馬にまたがった。マムルもミルの肩に乗る。
「イモさん、ありがとうございました! トンネルワームの抜け殻、喜んでもらえて良かったです!」
ミルが言うと、イモは満足そうに頷いた。
「うむ、美味だった。いつでも来るといい。私の話し相手に、いつでも」
「はい! また来ます!」
ミルは力強く答えた。リンティもマムルも、また来ることを約束した。
黒い馬は、再び地面を滑るように駆け出した。イモの庭園を出て、チタ高原の霧の中を駆け抜ける。
せっかく黒い馬に乗れるのだ、すぐに街へ戻るのは勿体ない。
リンティもそれに賛成し、周辺を少し走ってみることにした。チタ高原から街道に出ると、数台の馬車を追い抜かした。馬車に乗る人々が、黒い馬を見て驚きの顔を浮かべているのが見て取れた。
街道から外れ、広々とした草原へと足を踏み入れた。頬を撫でる風の中、黒い馬は草原を自由に駆け巡る。その疾走感は、まるで風と一体になったかのようだ。周りの景色は、あっという間に後方へと流れていく。
「わあ! すごい! 気持ちいいー!」
ミルの肩で、マムルが叫んだ。ミルもまた、その疾走感に酔いしれる。
馬に乗ること自体は初めてではないが、これほど速く、そして滑らかに走る馬は初めてだった。胸いっぱいの空気を吸い込むと、全身が解放されるような感覚に包まれた。
「ふふん! なかなか良い乗り心地じゃない! さすが悪魔が用意した馬ね!」
リンティも楽しそうだ。
視界の端を、風に乗って舞い上がる鳥たちが横切った。広大な草原の中、彼らは心ゆくまで風を切り、馬と呼吸を合わせ、この圧倒的な解放感を味わい尽くした。
草原を思う存分駆け回り、満足したところで、街の近くまで戻ってきた。黒い馬はイモが言っていた通り、一定距離を走ると止まり、少し疲れた様子を見せた。往復分走れるようになったとはいえ、やはりそれなりの魔力を消耗するのだろう。
馬から降りると、改めて黒い馬の姿を眺めた。普通の馬ではないことは明らかだが、とても賢そうで、どこか気高い雰囲気を漂わせている。
「この馬さん、名前がないのかなぁ?」
マムルが呟いた。
「名前? そういえば、イモさんも何も言ってなかったね」
ミルは黒い馬の首を撫でた。
「ねぇ、ミル! マムルが名前付けてあげる!」
マムルが張り切って言った。
「そうだね。どんな名前が良いかな?」
ミルが尋ねると、マムルは少し考えて、ぱっと顔を輝かせた。
「えっとねぇ……『にんじん』! にんじんが大好きだから!」
マムルらしい、ユニークな名前だ。黒い馬に『にんじん』というのは少し意外だったが、マムルが一生懸命考えた名だ。
「ふふ、いい名前ね、マムル」
リンティが笑った。
「どう? にんじんさん。マムルが付けてくれた名前だよ?」
ミルが黒い馬に話しかけた。黒い馬は応えるように首を傾げ、ミルに鼻先を擦り付けてきた。名前を気に入ってくれたのだろうか。
「よし! 今日から君は『にんじん』だね!」
こうして、悪魔イモの力で呼び出された黒い馬は、妖精マムルによって『にんじん』と名付けられたのだった。
ベルをもう一度鳴らすと、にんじんは音もなく姿を消した。いつでも、イモの庭園はもちろん、乗りたい時に呼び出せるのだ。
イモの依頼を果たすという冒険は、不思議な出会い、そして新たな相棒『にんじん』との出会いという、予想外の展開を迎えた。
ドワーフ鉱山、チタ高原、そして悪魔との出会い。ミルの冒険者としての道は、これからますます面白くなっていくだろう。
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